第79話 ホワイト・ストライプス【骨休め】
文字数 3,256文字
僕は数年前、茨城県の県庁所在地について書かないとならなくて、ふたつの文章を書いた。
今回は趣向を変えて、そのふたつの文章からほぼそのまま内容を抜粋しようと思う。
高校三年生の秋、県大会が終わったあとの、これは〈部活編〉の〈余談〉だ。
☆
高校三年生の二学期の終わり頃。
受験どころか、僕は学校に行くことも困難になってしまった。
「もう、るるせくんったら。気張らないでいいの。療養するのも、長い人生では大切だよぉ」
保健医のサトミ先生がにっこり微笑むと、僕も、そうだよなぁ、なんて思ってしまう。
「一度、少し離れたところで、外の空気をいっぱい吸ってごらん」
白衣でお茶を入れてくれる先生は、天使にみえた。
保健室のベッドでうずくまっていた僕は、起き上がった。
起き上がって、教室へ行くのではない。
行き先は水戸だ。
水戸。
水戸黄門で有名な感じの、納豆で有名な感じの、あの水戸をふらふらすることに、決めたのだ。
県庁所在地に行けば、なにかが掴める気がして。
「先生、ありがと。僕、外の空気に触れてくるよ」
「ん」
頷くサトミ先生。
帰宅した僕は、親を説得して水戸への定期券を買った。
これでいつでも水戸に行ける。
まあ、水戸に行く用事もほかにあったのだけど、それを除いても、どうにかこうにか水戸へ行き来できるように親を説得してこぎ着けたのだから、僕は頑張った。
僕の住んでいる町から水戸まで、往復一回で1500円くらいかかる。
僕にはハードルが高かった。
だが、これからは水戸へ行けるぞ、とわくわくした。
「羽目を外さないようにね」
そんな声も保健室のベッドの中で聞こえた気がしたが、右の耳から左の耳に言葉は通り抜けていき、自由人である僕は生まれた。
僕が水戸で受けた一番の刺激は、水戸芸術館の美術展覧会である。
時間が経過しすぎて時系列がおかしくなってしまうのを覚悟で言うと、水戸芸術館で開催された『日本ゼロ年展』が、今の僕をつくりだしてしまった。
正確には、この日本ゼロ年展と、同時期に買って読んだ筒井康隆先生の小説『文学部唯野教授』という、この二つが、今の僕をつくりだしてしまい、戻れなくなった。
どちらも、『現代なんたら~』の申し子であるようなイベントであり、小説である。
ちなみに、一回上京して、帰郷する頃、僕は水戸芸術館で柳瀬尚紀先生の講演会を聴いている。
ベケットについて話していた。ベケットは現代演劇だ。
と、いうことは美術、文学、演劇で、僕はポストモダンの洗礼を、何故か水戸という地方都市で受けてしまったことになる。
普通は、こういうものは東京で洗礼を受けるものと相場が決まっているのだが、僕の場合は違ったのである。
まあ、それはともかく。水戸ライフが始まり。
インターネット通販がない頃の僕は、本を探すのに、大変苦労していたが、水戸の本屋が活用できるようになり、そのうちに本屋で注文という、コミュ障にはハードルが高いことにも慣れてきて、水戸ライフを円滑に送ることになったのだった。
茨城県北部にいると、アニメグッズひとつ買うのですら、水戸へ赴かなければならないのは、今も同じであり、そういう理由から、水戸はサブカルの香りがする街でもあった。
茨城県のアニメマニアのほとんどはボーイズラブ勢のおねーちゃんたちであり、僕ら男オタクたちは隅に追いやられている感が当時はあった。
その橋渡しとなるような、週刊少年ジャンプを中心とした漫画のコミックも、僕は水戸で大量購入して読みあさった。
水戸は、文化の街である。
弘道館という藩校は、いわば歴史の〈爆心地〉とすら、なった。
水戸学が生まれ、それが明治維新に繋がるのだ。
文化も文化、今の日本に繋がる思想が生まれた場所だ。
僕は水戸の南口を出て川を渡った中央一丁目のラブホテル群の中にぽつんとある、小さな公園で缶コーヒーを飲みながら、漫画を読む。
受験どころか、高校の出席日数も、すれすれだった。
留年間近の出席日数だった。
でも、それでもよかったのだ。
一丁目から千波湖のあたりを歩き、水戸近代美術館へ行く。
その行き先の途中には、僕が視聴覚委員会の集まりでビデオをつくった県民文化センターもある。
視聴覚委員会でつくった、僕が女装しているビデオ数本は、今はどこにあるのやら。
そういうや僕は中学生の時もセーラー服着た映像を残していたな、なんて思い出しながら。
文化の街、というのは、僕の個人史にとっては、上記のような思い出があるからで、実際はコネクションがないと、微妙に遊びづらい場所であったりはするのだ。
その意味では、文化の街って感じがしない人の方が多いと思う。
少し前まで、隣のひたちなか市でロッキンジャパンフェスがやっていたり、水戸と勝田から出ている大洗鹿島線で行けるガールズ&パンツァーの聖地巡礼ができたりして、でも、それらが上手く水戸と繋がらない部分は、おおいにある。
茨城の地元民としての雑感だけど。
文化というものを、どこで切り取るかの問題なのだよな、きっと。
水戸への切符を手に入れた僕は、文化に触れた。
インターネットの世界とは異種の、文化である。
歩かなくちゃ、わからない。
数年前、水戸の南にあるお好み焼き屋でソーシャルゲームのコラボお好み焼きを食べながら、水戸について、いつか小説を書きたいなぁ、と思った。
高校生活最後でぼろぼろになった僕が訪れた街で、現代思想を植え付けてくれた、水戸という街を、描きたい、と。
☆
僕が高校を卒業した年、水戸では、なにかが始まろうとしていた。そしてそれは計画通り始まり、水戸は爆心地となった。
なにがその年に起こったのか。
それは、美術評論家の椹木野衣氏がキュレーターとなって、水戸芸術館にて『「日本ゼロ年」展』を行った、ということで、『日本・現代・美術』 を自身がひっさげて、今も最前線で活動を続けている輝かしい現代美術のアーティストたち(あの頃は今ほど知名度がないひともいたのだ)を連れてやってきたのだから、振り返ると完全に日本現代美術の爆心地になった、と言って過言ではない。
横尾忠則、村上隆、大竹伸朗、会田誠にヤノベケンジ、飴屋法水、他にも続々とアーティストの作品が並ぶ。
僕は“わるい場所”である、茨城県で、その展覧会を観た。
エピステーメーの断絶した地点、枠組みがいったんリセットされたゼロ地点から始まる日本の美術、その方向性を示したか、もしくは「示さないことを示した(つまり全方位性の)」作品群を、僕は水戸芸術館で観た。
僕に美術の知識はない。
だから。
会場の壁に直接描かれた、タイムボカンの爆発した煙の絵。
もちろんこれは外国人が観たらアトミックボムのきのこ雲だ、と指摘するだろうけど、そんなことは知らない。
知らなかったけど、この作品に僕はびっくりしたし、「大破壊後の世界」を行き来するための黄色い色をした潜水艦が展示されていて、これにも驚いて、わくわくした。
そもそも僕はインスタレーションのオブジェなんてまともに観たのは初めてだったのだ。
☆
美術。
高校の選択教科で僕が選択しなかったものである。
実は中学生時代、僕は版画で抽象画を描いた。
それを、当時の中学の美術教師のおじいちゃんが褒めてくれた。
彼は、その後、高校の美術教師になって、去っていった。
去り際、僕に、
「君は才能があるよ。君にもっと教えたかったな」
と、言ってくれた。
そのおじいちゃん先生が行った先の高校が、僕が入学した高校だった。
だが、彼は高齢で、教師を辞めてしまった。
ちょうど辞めるときに入れ替わりで入学したのだ。
彼以外には美術は教わりたくないな、と思ったので、僕は選択授業を音楽にした。
今まで、誰にも話したことがなかったけど、高校へは、その先生を追って入った側面もあったのだ。
その、美術と、再会した。
お客さんとして。
今回の話も、唐突だったので、項を改めて、物語を続行するとしよう。
〈了〉
今回は趣向を変えて、そのふたつの文章からほぼそのまま内容を抜粋しようと思う。
高校三年生の秋、県大会が終わったあとの、これは〈部活編〉の〈余談〉だ。
☆
高校三年生の二学期の終わり頃。
受験どころか、僕は学校に行くことも困難になってしまった。
「もう、るるせくんったら。気張らないでいいの。療養するのも、長い人生では大切だよぉ」
保健医のサトミ先生がにっこり微笑むと、僕も、そうだよなぁ、なんて思ってしまう。
「一度、少し離れたところで、外の空気をいっぱい吸ってごらん」
白衣でお茶を入れてくれる先生は、天使にみえた。
保健室のベッドでうずくまっていた僕は、起き上がった。
起き上がって、教室へ行くのではない。
行き先は水戸だ。
水戸。
水戸黄門で有名な感じの、納豆で有名な感じの、あの水戸をふらふらすることに、決めたのだ。
県庁所在地に行けば、なにかが掴める気がして。
「先生、ありがと。僕、外の空気に触れてくるよ」
「ん」
頷くサトミ先生。
帰宅した僕は、親を説得して水戸への定期券を買った。
これでいつでも水戸に行ける。
まあ、水戸に行く用事もほかにあったのだけど、それを除いても、どうにかこうにか水戸へ行き来できるように親を説得してこぎ着けたのだから、僕は頑張った。
僕の住んでいる町から水戸まで、往復一回で1500円くらいかかる。
僕にはハードルが高かった。
だが、これからは水戸へ行けるぞ、とわくわくした。
「羽目を外さないようにね」
そんな声も保健室のベッドの中で聞こえた気がしたが、右の耳から左の耳に言葉は通り抜けていき、自由人である僕は生まれた。
僕が水戸で受けた一番の刺激は、水戸芸術館の美術展覧会である。
時間が経過しすぎて時系列がおかしくなってしまうのを覚悟で言うと、水戸芸術館で開催された『日本ゼロ年展』が、今の僕をつくりだしてしまった。
正確には、この日本ゼロ年展と、同時期に買って読んだ筒井康隆先生の小説『文学部唯野教授』という、この二つが、今の僕をつくりだしてしまい、戻れなくなった。
どちらも、『現代なんたら~』の申し子であるようなイベントであり、小説である。
ちなみに、一回上京して、帰郷する頃、僕は水戸芸術館で柳瀬尚紀先生の講演会を聴いている。
ベケットについて話していた。ベケットは現代演劇だ。
と、いうことは美術、文学、演劇で、僕はポストモダンの洗礼を、何故か水戸という地方都市で受けてしまったことになる。
普通は、こういうものは東京で洗礼を受けるものと相場が決まっているのだが、僕の場合は違ったのである。
まあ、それはともかく。水戸ライフが始まり。
インターネット通販がない頃の僕は、本を探すのに、大変苦労していたが、水戸の本屋が活用できるようになり、そのうちに本屋で注文という、コミュ障にはハードルが高いことにも慣れてきて、水戸ライフを円滑に送ることになったのだった。
茨城県北部にいると、アニメグッズひとつ買うのですら、水戸へ赴かなければならないのは、今も同じであり、そういう理由から、水戸はサブカルの香りがする街でもあった。
茨城県のアニメマニアのほとんどはボーイズラブ勢のおねーちゃんたちであり、僕ら男オタクたちは隅に追いやられている感が当時はあった。
その橋渡しとなるような、週刊少年ジャンプを中心とした漫画のコミックも、僕は水戸で大量購入して読みあさった。
水戸は、文化の街である。
弘道館という藩校は、いわば歴史の〈爆心地〉とすら、なった。
水戸学が生まれ、それが明治維新に繋がるのだ。
文化も文化、今の日本に繋がる思想が生まれた場所だ。
僕は水戸の南口を出て川を渡った中央一丁目のラブホテル群の中にぽつんとある、小さな公園で缶コーヒーを飲みながら、漫画を読む。
受験どころか、高校の出席日数も、すれすれだった。
留年間近の出席日数だった。
でも、それでもよかったのだ。
一丁目から千波湖のあたりを歩き、水戸近代美術館へ行く。
その行き先の途中には、僕が視聴覚委員会の集まりでビデオをつくった県民文化センターもある。
視聴覚委員会でつくった、僕が女装しているビデオ数本は、今はどこにあるのやら。
そういうや僕は中学生の時もセーラー服着た映像を残していたな、なんて思い出しながら。
文化の街、というのは、僕の個人史にとっては、上記のような思い出があるからで、実際はコネクションがないと、微妙に遊びづらい場所であったりはするのだ。
その意味では、文化の街って感じがしない人の方が多いと思う。
少し前まで、隣のひたちなか市でロッキンジャパンフェスがやっていたり、水戸と勝田から出ている大洗鹿島線で行けるガールズ&パンツァーの聖地巡礼ができたりして、でも、それらが上手く水戸と繋がらない部分は、おおいにある。
茨城の地元民としての雑感だけど。
文化というものを、どこで切り取るかの問題なのだよな、きっと。
水戸への切符を手に入れた僕は、文化に触れた。
インターネットの世界とは異種の、文化である。
歩かなくちゃ、わからない。
数年前、水戸の南にあるお好み焼き屋でソーシャルゲームのコラボお好み焼きを食べながら、水戸について、いつか小説を書きたいなぁ、と思った。
高校生活最後でぼろぼろになった僕が訪れた街で、現代思想を植え付けてくれた、水戸という街を、描きたい、と。
☆
僕が高校を卒業した年、水戸では、なにかが始まろうとしていた。そしてそれは計画通り始まり、水戸は爆心地となった。
なにがその年に起こったのか。
それは、美術評論家の椹木野衣氏がキュレーターとなって、水戸芸術館にて『「日本ゼロ年」展』を行った、ということで、『日本・現代・美術』 を自身がひっさげて、今も最前線で活動を続けている輝かしい現代美術のアーティストたち(あの頃は今ほど知名度がないひともいたのだ)を連れてやってきたのだから、振り返ると完全に日本現代美術の爆心地になった、と言って過言ではない。
横尾忠則、村上隆、大竹伸朗、会田誠にヤノベケンジ、飴屋法水、他にも続々とアーティストの作品が並ぶ。
僕は“わるい場所”である、茨城県で、その展覧会を観た。
エピステーメーの断絶した地点、枠組みがいったんリセットされたゼロ地点から始まる日本の美術、その方向性を示したか、もしくは「示さないことを示した(つまり全方位性の)」作品群を、僕は水戸芸術館で観た。
僕に美術の知識はない。
だから。
会場の壁に直接描かれた、タイムボカンの爆発した煙の絵。
もちろんこれは外国人が観たらアトミックボムのきのこ雲だ、と指摘するだろうけど、そんなことは知らない。
知らなかったけど、この作品に僕はびっくりしたし、「大破壊後の世界」を行き来するための黄色い色をした潜水艦が展示されていて、これにも驚いて、わくわくした。
そもそも僕はインスタレーションのオブジェなんてまともに観たのは初めてだったのだ。
☆
美術。
高校の選択教科で僕が選択しなかったものである。
実は中学生時代、僕は版画で抽象画を描いた。
それを、当時の中学の美術教師のおじいちゃんが褒めてくれた。
彼は、その後、高校の美術教師になって、去っていった。
去り際、僕に、
「君は才能があるよ。君にもっと教えたかったな」
と、言ってくれた。
そのおじいちゃん先生が行った先の高校が、僕が入学した高校だった。
だが、彼は高齢で、教師を辞めてしまった。
ちょうど辞めるときに入れ替わりで入学したのだ。
彼以外には美術は教わりたくないな、と思ったので、僕は選択授業を音楽にした。
今まで、誰にも話したことがなかったけど、高校へは、その先生を追って入った側面もあったのだ。
その、美術と、再会した。
お客さんとして。
今回の話も、唐突だったので、項を改めて、物語を続行するとしよう。
〈了〉