第56話 世界の果てのフラクタル【13】

文字数 2,504文字

 この文章を書いている2021年10月7日に、本日発売の文芸雑誌『群像』2021年11月号が届いたので、さっそく筒井康隆先生の『コロナ追分』を読んだ。
 いわゆる〈追分節〉と呼ばれる民謡の拍子を基調とした文体で、コロナに対して、軽薄な感じで風刺を語っていく、という実験小説だった。
 著者本人が文中で「不謹慎」と語る通りで、民謡調文体で朗々とコロナ禍を語られたら不謹慎に思うひともいるだろう。
 ただ、内容は表層を滑っていくような調子で、そこには諧謔はあれども、それ以上のメッセージは内容自体にはない。
 むしろ、文体との兼ね合いで、軽薄に語ることがメッセージで、そのメッセージが不謹慎と映るだろう、ということなのだと僕は思った。

 前項との兼ね合いでいうと、アンディ・ウォーホルは物事の表面、表層を徹底的に描く方向性というのを武器にした美術家で、それは、〈客観描写〉に徹するのを武器にしたヘミングウェイの〈ハードボイルド文体〉にも繋げられそうだ。
 筒井先生もどこかで、文章の勉強にヘミングウェイの短編を何度も読み返した、と語っていた。
 僕も、田舎へ帰郷後、小説を本格的に書いていくにあたって最初は〈客観描写〉の勉強をしよう、と思って、新潮文庫で『ヘミングウェイ全短編』を揃えて、何度も読み返した。
 また読み返したいな、ヘミングウェイの短編小説。
 ニック・アダムス物語、と今では呼ばれている連作短編を、不定期的にヘミングウェイは書いていて、時系列順に短編を読んでいるといきなりニック・アダムス物語が挿入されるのが、また良いのだ。
 ヘミングウェイに関しては、SF作家のレイ・ブラッドベリの『キリマンジャロマシーン』という名作短編でヘミングウェイが登場するのだが、ヘミングウェイの作品と生涯を知っていると、このSF短編は泣けてくるので、それもオススメだ。


 今回はちょっと遠回りをして、話を進める必要が出てきたな。
 不謹慎、について書いてみたいと思う。







 田山花袋、という作家から、話を始めないとならない。
 前にこの小説内で書いたが、田山花袋は、私小説の草分け的存在だ。
 田山花袋から私小説が始まった、と言ってもいい。
 今、伝わっているのは田山花袋が私小説をつくった、という史観だが、おそらくは調べていけば、ほぼ同時多発的に私小説は生まれているはずだ。
 二葉亭四迷『浮雲』だって、〈若者言葉〉で〈学園もの〉を書いていたのだから、ライトノベルの萌芽と見ることさえ出来るはずだし、〈物は考えよう〉である。
 坪内逍遙と二葉亭四迷の話は、機会があれば書きたいと思う。
 今は、田山花袋を語っているのだった。
 田山花袋は、私小説というジャンルをつくったことになった、とされてしまったが故に、大御所の、しかも私小説創始者というポジションになってしまった。
 気に食わなかった文士たちも多かったと思う。
 そして、年を取った田山花袋は大御所として、編集者や編集部も口出しできないほど偉いポジションになってしまったらしい。
 ここからが重要なのだが。
 田山花袋は痴呆症の症状が出てきてしまった。
 自分で引退しない場合、作家は仕事があるかないかは別として、作家なのである。
 田山花袋は、痴呆があるなか、小説を書き続けた。
 誤字、脱字が出てきてしまったとき、大御所の田山花袋に編集者が誤字脱字修正をお願いすることは不可能となった。
「これはそういう文学表現なのである」
 と、いうことになった。
 だが、あきらかに、その誤字脱字は文学表現ではなさそうに、他の作家を含め、読者たちには思えた、という。







 筒井康隆先生は2000年に、『エンガッツィオ司令塔』を出版し、そこに、断筆解除宣言の覚書が収録されているのだが。
 筒井先生は断筆宣言を行って、断筆中、麦酒のテレビコマーシャルで「書くべきか、書かざるべきか」という台詞を言いながら麦酒を飲む役をやり、一部の作家などからひんしゅくを買うのだが、断筆解除は、「覚書を交わした出版社のところだけに小説を書く」ということになり、これもやはり、ほかの一部の作家のひんしゅくを買った。
 覚書の全文は、そういうわけで『エンガッツィオ司令塔』に書いてあるので、ぜひ読まれたし!


 だがしかし、である。
 筒井先生はともかく、クリエイター全体への言葉狩りや表現規制はその勢いを増す。
 今現在、ポリティカルコレクトネスや、「外国さまのお伺いを立て」たりなどによっての表現規制は日本国内でも年々強まり、僕が若い頃の〈言葉狩り〉がまるで児戯のごとくのようになった。
 なので逆説的に、覚書のなかの項目に「出版社は従前どおり筒井氏の意に反した用語の改変は行わない」とある、筒井康隆先生の使う用語の〈不謹慎さ〉が、〈最後の喫煙者の書く文学〉として、活きてくることになってしまった。
「エンガッツィオ」=「えんがちょ」とも読めるのに、このブラックユーモアの大御所が日本語を守る立場になってしまったのである。
 驚きである。
 まさか、1996年頃に交わした覚書が、2020年代に活きてきて、クリエイターたちの励みになるとは!
 これは予想されてはいただろうが、実際にこんな不自由な新世紀に、筒井康隆先生の小説が燦然と輝く〈文学〉になるとまでは、思っていないひとが大半だったのではなかろうか。

 だいたいさぁ、小説って、不謹慎なものだよ?
 自分を「最後の文豪」と呼び、「最後の喫煙者」と、二つ名を名乗るかのごときタイトルの短編を書く筒井先生は、確かに日本語の豊穣さを守る、最後の文豪なのかもしれない、不謹慎さ故に、だ。


 田山花袋の小説に編集者のチェックが入らなかったように、筒井康隆も(!)、編集者が「不謹慎ではないか? という指摘が入ったのを、そうですねぇ、本当にそうです、と頷きながら全部そのまま通す」という状態になり、色々な日本語の表現は、どうにか筒井康隆先生の小説を介して、残ることが出来たのである。


 ……この話は、まだ、続けてから、先に進みたいと思う。
 続けるかどうかは、僕は情弱なので、今の段階では実のところはわからないけども。






〈次回へつづく〉
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