第52話 世界の果てのフラクタル【9】
文字数 2,235文字
僕はそんなにウェブの読み物を読まないからわからないけど、僕もどこかでは酷く言われているのだろうなぁ、と思う。
確実に言われている、間違いない。
僕の方だって、ぶーぶー文句たれながら、小説を書き続けている。
なにかとうんざりだぜ。
ならば僕も去ればいいのだろうけど、まだまだやれることはあると思っているのでやっている。
どこに書くか、送るかで傾向と対策ってあるけど、サイト攻略ゲームみたいな使い方、それはあまりやらないほうがいいと思う。
なぜなら小説はゲームに例えることはあっても、ゲーム自体ではないからだ。
それに、読者さんはみんな賢いよ?
思惑見え見えなところにノッてくれるのは、その作者に勢いがあるときくらいだろう。
それに、さ。
見え見えでいいのは下着くらいにしてくれよ(セクハラだな、この発言……)。
ちなみに、セクハラで思うのだけど、「話者が誰であるか」が、問われるよね、現実では、特に。
政治的な環境下にいるひとは、はしごを外したいひとが暗躍するから、この問題は論外なので、根本的に除外したほうが良さそうだけども。
誰が言うか、で変わるのはネットだと顔が見えないから、例えばフォロワ数なんかに関係してきちゃって、リアルと違うロジックだなぁ、っていうのも付け加えつつ。
僕は小説で世界を変えることが出来る、と信じていた人間でもある。
結果は酷いものだった。
確かに変わる。
けど、それはいつも、僕じゃない誰かの言葉によってであって、僕の力で変わることなんてなにひとつもなかった。
要するに、そういうことなのだ。
☆
チェ・ゲバラは、二冊の〈日記〉を出版した。
今では『モーターサイクル・ダイアリーズ』と呼ばれる、医者のたまごだった頃の友達と一緒のバイク旅行記。
もう一冊はキューバ革命時に、戦場で書き綴った『ゲバラ日記』と今では呼ばれているものだ。
カストロは晩年、禁煙宣言をするのだが、もともと革命起こすためにゲバラたちとキューバに上陸していたとき、山の中でのゲリラ戦を戦ったので、顔の虫除けに葉巻や煙草を吸っていて、それがトレードマークになってしまったままのカストロだから、インパクトが強かった。
カストロとともに、ゲバラと言えば葉巻である。
葉巻の煙で虫を追っ払いながら書いたのであろう、チェ・ゲバラの日記。
ゲバラの連作の映画の最後、ラストシーンで、殺す側の人間がゲバラに、
「君の書いた日記、我々も読ませてもらったよ。大変参考になった、我々の組織のためにね」
とか言って銃を撃つ。
とても印象に残っている、ラストシーンだ。
僕も〈日記魔〉なので、ゲバラ日記やアンネ・フランクの日記に敬意の念を持っている。
僕は、中学一年生のとき、日記を書かなかったので、担任教師に職員室の前で正座させられて、そこで日記を書いていた。
そのときの時間の濃密さと、担任には特別な思い入れがあるという理由から、僕は日記、身辺雑記を書くのを、のちに好きになってしまった。
気づけば正座で無理矢理書かされていたのに嫌になるどころか、ある日、突如〈日記魔〉になるのだから、人生は面白い。
今も、ウェブ日記を書き続けている。
今お読みいただいている私小説も、身辺雑記、エッセイ、当時を思い出して書く日記Rewriteなどに分類しようと思えばできる作品だ。
身辺雑記と私小説は全く違うものだけど、境界線はあいまいだからこそ、身辺雑記と私小説の違いが盛んに論じられていた時代があったのだ、と僕は思っている。
日記と言えばヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、戦場で書き綴ったメモと脚注の意味も成す日記をあとでまとめたものであることも有名だ。
純文学には「日記文学」と呼ばれるジャンルもある。
でも、日記や身辺雑記では終わらないものを今の僕は構築しようと思っている。
僕は「言葉なんて信用しないさ」とうそぶく。
ジョルジュ・バタイユが『無神学大全』で語ったのと近い気持ちのような感じがする。
「文章が嫌いだ。わたしが断言したこと、私が共鳴した信念、すべてが笑うべきものであり、死んだようだ。わたしは沈黙にほかならず、世界は沈黙である」って、バタイユは『無神学大全』に書いた。
僕もおおむね、似たことをたまに考える。
そして文章形式としても上述のバタイユみたく、日記だけじゃなく、断章、つまり文章の断片を書き連ねるのも良いなぁ、と考えている。
でも、厨二病が極まってしまうので、あまり意味ありげな断章を書くのを躊躇している。
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』も、哲学に分類できるけど、エッセイだ。
日記の近接ジャンルという解釈も出来る。
飛躍しすぎかな。
ともかく。
日記から派生した文学、僕は好きだ。
読むのも、書くのも。
もう一度言うが。
僕は小説で世界を変えることが出来る、と信じていた人間でもある。
だが、僕が考える小説は、普通とは違うのかもしれない。
その糸口は日記であり、身辺雑記であり、私小説でもある。
エンタメ書くときも、全くの空想では、書かないように、実はしている。
リアルをベースに、空想の力を使うことがほとんどだ。
木を隠すなら森の中へ、だぜ。
ヒリヒリ焼き付くリアルから出た妄想は、虚構と超虚構という妄想の間に埋め込む。
上手くいっているとはまだまだ言いがたいので、今後も僕はその、死神の精度を上げるだけだ。
現実逃避ではない妄想に、幸あれ。
〈次回へつづく〉
確実に言われている、間違いない。
僕の方だって、ぶーぶー文句たれながら、小説を書き続けている。
なにかとうんざりだぜ。
ならば僕も去ればいいのだろうけど、まだまだやれることはあると思っているのでやっている。
どこに書くか、送るかで傾向と対策ってあるけど、サイト攻略ゲームみたいな使い方、それはあまりやらないほうがいいと思う。
なぜなら小説はゲームに例えることはあっても、ゲーム自体ではないからだ。
それに、読者さんはみんな賢いよ?
思惑見え見えなところにノッてくれるのは、その作者に勢いがあるときくらいだろう。
それに、さ。
見え見えでいいのは下着くらいにしてくれよ(セクハラだな、この発言……)。
ちなみに、セクハラで思うのだけど、「話者が誰であるか」が、問われるよね、現実では、特に。
政治的な環境下にいるひとは、はしごを外したいひとが暗躍するから、この問題は論外なので、根本的に除外したほうが良さそうだけども。
誰が言うか、で変わるのはネットだと顔が見えないから、例えばフォロワ数なんかに関係してきちゃって、リアルと違うロジックだなぁ、っていうのも付け加えつつ。
僕は小説で世界を変えることが出来る、と信じていた人間でもある。
結果は酷いものだった。
確かに変わる。
けど、それはいつも、僕じゃない誰かの言葉によってであって、僕の力で変わることなんてなにひとつもなかった。
要するに、そういうことなのだ。
☆
チェ・ゲバラは、二冊の〈日記〉を出版した。
今では『モーターサイクル・ダイアリーズ』と呼ばれる、医者のたまごだった頃の友達と一緒のバイク旅行記。
もう一冊はキューバ革命時に、戦場で書き綴った『ゲバラ日記』と今では呼ばれているものだ。
カストロは晩年、禁煙宣言をするのだが、もともと革命起こすためにゲバラたちとキューバに上陸していたとき、山の中でのゲリラ戦を戦ったので、顔の虫除けに葉巻や煙草を吸っていて、それがトレードマークになってしまったままのカストロだから、インパクトが強かった。
カストロとともに、ゲバラと言えば葉巻である。
葉巻の煙で虫を追っ払いながら書いたのであろう、チェ・ゲバラの日記。
ゲバラの連作の映画の最後、ラストシーンで、殺す側の人間がゲバラに、
「君の書いた日記、我々も読ませてもらったよ。大変参考になった、我々の組織のためにね」
とか言って銃を撃つ。
とても印象に残っている、ラストシーンだ。
僕も〈日記魔〉なので、ゲバラ日記やアンネ・フランクの日記に敬意の念を持っている。
僕は、中学一年生のとき、日記を書かなかったので、担任教師に職員室の前で正座させられて、そこで日記を書いていた。
そのときの時間の濃密さと、担任には特別な思い入れがあるという理由から、僕は日記、身辺雑記を書くのを、のちに好きになってしまった。
気づけば正座で無理矢理書かされていたのに嫌になるどころか、ある日、突如〈日記魔〉になるのだから、人生は面白い。
今も、ウェブ日記を書き続けている。
今お読みいただいている私小説も、身辺雑記、エッセイ、当時を思い出して書く日記Rewriteなどに分類しようと思えばできる作品だ。
身辺雑記と私小説は全く違うものだけど、境界線はあいまいだからこそ、身辺雑記と私小説の違いが盛んに論じられていた時代があったのだ、と僕は思っている。
日記と言えばヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、戦場で書き綴ったメモと脚注の意味も成す日記をあとでまとめたものであることも有名だ。
純文学には「日記文学」と呼ばれるジャンルもある。
でも、日記や身辺雑記では終わらないものを今の僕は構築しようと思っている。
僕は「言葉なんて信用しないさ」とうそぶく。
ジョルジュ・バタイユが『無神学大全』で語ったのと近い気持ちのような感じがする。
「文章が嫌いだ。わたしが断言したこと、私が共鳴した信念、すべてが笑うべきものであり、死んだようだ。わたしは沈黙にほかならず、世界は沈黙である」って、バタイユは『無神学大全』に書いた。
僕もおおむね、似たことをたまに考える。
そして文章形式としても上述のバタイユみたく、日記だけじゃなく、断章、つまり文章の断片を書き連ねるのも良いなぁ、と考えている。
でも、厨二病が極まってしまうので、あまり意味ありげな断章を書くのを躊躇している。
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』も、哲学に分類できるけど、エッセイだ。
日記の近接ジャンルという解釈も出来る。
飛躍しすぎかな。
ともかく。
日記から派生した文学、僕は好きだ。
読むのも、書くのも。
もう一度言うが。
僕は小説で世界を変えることが出来る、と信じていた人間でもある。
だが、僕が考える小説は、普通とは違うのかもしれない。
その糸口は日記であり、身辺雑記であり、私小説でもある。
エンタメ書くときも、全くの空想では、書かないように、実はしている。
リアルをベースに、空想の力を使うことがほとんどだ。
木を隠すなら森の中へ、だぜ。
ヒリヒリ焼き付くリアルから出た妄想は、虚構と超虚構という妄想の間に埋め込む。
上手くいっているとはまだまだ言いがたいので、今後も僕はその、死神の精度を上げるだけだ。
現実逃避ではない妄想に、幸あれ。
〈次回へつづく〉