第83話 YAMAHA:QY100【4】
文字数 1,520文字
上京後のことである。
吉祥寺のイタ飯屋で働いていた僕は、店長のシンさんに言われたことがあって、それを未だに覚えている。
「るるせちゃん。君はバンドでアングラなことをやっているだろう。もともとはアングラっていうのは〈暗黒舞踏〉を指した言葉だったんだよ。アングラを指向するのは、演じるのもオーディエンスもマイノリティ、少数者なんだ。少数の愛好家にだけウケれば良いと考えていないかい? 最初からマイノリティに向けた作品をつくるより、大衆に、マジョリティに向けた作品つくれ。マジョリティのこころを動かせるようでないと」
と、そんな内容だったと思う。
シンさんは、本業は俳優で、仕事がない日はイタ飯屋の店長をしているのだった。
演劇畑の彼の話にも、一理あったと感じた僕は、思索を重ねた。
マイノリティ。
今でこそ多様性なんて言葉が人口に膾炙しているけれども、昔は、ちょっと恥ずかしげに語られるものだった。
少なくとも、マジョリティの中では。
僕のいた高校の演劇部で流行ったテレビ番組に、『笑う犬の生活』というものがあり、そこで放映された『てるとたいぞう』というコントコーナーの、特に第一部は、〈男と男、刑事、生と死〉をテーマにした、シリアスコントだった。
シリアスだが、そのコントで語られる同性愛描写は、当時の腐女子たち(腐女子なんて言葉はなかったが)に届けられるだけでなく、射程が広かった。
マジョリティたちにもエンタメとしても楽しめるよう、随所に工夫が施された、〈笑える〉コントだった。
笑えなくちゃ、当時はその手のネタは届かなかった。
それどころか、同人ノリのそのコーナー自体が、当時では最先端な試みだった。
演劇部一同、毎週笑いながら『てるとたいぞう』の話をしていたものだった。
今だったら「笑ったら失礼だぞ」と言うひとがいそうな、同性愛ネタだったが、そもそもマジョリティがまともにとりあってくれないから、マイノリティ側が自らを卑下して〈クィア〉と呼んでいた歴史を忘れてはいけない。
クィアとは、日本語で言うと変態、みたいな意味合いの言葉である。
てるとたいぞうで育った僕は、だから、道なき道を進み、狭き門より入るのが創作の道だと思っていたから、シンさんの言葉にびっくりしたのだった。
同時に、しっくりと来た。
イタ飯屋の閉店時間が過ぎ、クローズしてまかない飯を食べながら、マジョリティとマイノリティの話をする。
濃密な時間だった。
僕は吉祥寺アーケードを通って、終電に乗るために、駅に向かう。
アーケードでは、ストリートミュージシャンが歌っていて、お客さんの女の子がスカートで体育座りをしていて、ぱんつが見えたりする。
それを横目にしながら、まかないとともに飲んだお酒で少し酔っぱらいながら、歩く。
熱くなった頬に、吹いた風がひんやりと心地良い。
少数者にしかウケない、と言えば〈面雀〉(おもじゃん、と読む)の話だ。
僕はずっと〈面雀〉がやりたかった。
高校生の頃から。
その話も、いずれしよう。
そんな僕と、カケは、高校卒業後、YAMAHAの『QY100』というシーケンサーを手に入れて、遊ぶことになる。
それは〈面雀〉に負けない極上の遊びだった、気がする。
QY100での遊びは、バンドに繋がっていくのだから、人生はなかなか面白いものだ。
そして、演劇部が終わったあとの僕にも、延長戦として、劇団の手伝い、という思い出もある。
劇団の伝手で僕は、『うつくしま未来博』という、福島の万博のスタッフになるなどもする。
高校が終わっても、しばらくの間は、いろいろあった僕なのであった。
こころの調子はよくないままで、だったが。
〈次回へつづく〉
吉祥寺のイタ飯屋で働いていた僕は、店長のシンさんに言われたことがあって、それを未だに覚えている。
「るるせちゃん。君はバンドでアングラなことをやっているだろう。もともとはアングラっていうのは〈暗黒舞踏〉を指した言葉だったんだよ。アングラを指向するのは、演じるのもオーディエンスもマイノリティ、少数者なんだ。少数の愛好家にだけウケれば良いと考えていないかい? 最初からマイノリティに向けた作品をつくるより、大衆に、マジョリティに向けた作品つくれ。マジョリティのこころを動かせるようでないと」
と、そんな内容だったと思う。
シンさんは、本業は俳優で、仕事がない日はイタ飯屋の店長をしているのだった。
演劇畑の彼の話にも、一理あったと感じた僕は、思索を重ねた。
マイノリティ。
今でこそ多様性なんて言葉が人口に膾炙しているけれども、昔は、ちょっと恥ずかしげに語られるものだった。
少なくとも、マジョリティの中では。
僕のいた高校の演劇部で流行ったテレビ番組に、『笑う犬の生活』というものがあり、そこで放映された『てるとたいぞう』というコントコーナーの、特に第一部は、〈男と男、刑事、生と死〉をテーマにした、シリアスコントだった。
シリアスだが、そのコントで語られる同性愛描写は、当時の腐女子たち(腐女子なんて言葉はなかったが)に届けられるだけでなく、射程が広かった。
マジョリティたちにもエンタメとしても楽しめるよう、随所に工夫が施された、〈笑える〉コントだった。
笑えなくちゃ、当時はその手のネタは届かなかった。
それどころか、同人ノリのそのコーナー自体が、当時では最先端な試みだった。
演劇部一同、毎週笑いながら『てるとたいぞう』の話をしていたものだった。
今だったら「笑ったら失礼だぞ」と言うひとがいそうな、同性愛ネタだったが、そもそもマジョリティがまともにとりあってくれないから、マイノリティ側が自らを卑下して〈クィア〉と呼んでいた歴史を忘れてはいけない。
クィアとは、日本語で言うと変態、みたいな意味合いの言葉である。
てるとたいぞうで育った僕は、だから、道なき道を進み、狭き門より入るのが創作の道だと思っていたから、シンさんの言葉にびっくりしたのだった。
同時に、しっくりと来た。
イタ飯屋の閉店時間が過ぎ、クローズしてまかない飯を食べながら、マジョリティとマイノリティの話をする。
濃密な時間だった。
僕は吉祥寺アーケードを通って、終電に乗るために、駅に向かう。
アーケードでは、ストリートミュージシャンが歌っていて、お客さんの女の子がスカートで体育座りをしていて、ぱんつが見えたりする。
それを横目にしながら、まかないとともに飲んだお酒で少し酔っぱらいながら、歩く。
熱くなった頬に、吹いた風がひんやりと心地良い。
少数者にしかウケない、と言えば〈面雀〉(おもじゃん、と読む)の話だ。
僕はずっと〈面雀〉がやりたかった。
高校生の頃から。
その話も、いずれしよう。
そんな僕と、カケは、高校卒業後、YAMAHAの『QY100』というシーケンサーを手に入れて、遊ぶことになる。
それは〈面雀〉に負けない極上の遊びだった、気がする。
QY100での遊びは、バンドに繋がっていくのだから、人生はなかなか面白いものだ。
そして、演劇部が終わったあとの僕にも、延長戦として、劇団の手伝い、という思い出もある。
劇団の伝手で僕は、『うつくしま未来博』という、福島の万博のスタッフになるなどもする。
高校が終わっても、しばらくの間は、いろいろあった僕なのであった。
こころの調子はよくないままで、だったが。
〈次回へつづく〉