第42話 成瀬川るるせと新世界【6】
文字数 1,622文字
ジェイムス・ジョイスの『ダブリナーズ』は短編集である。
その短編は毎回悲劇として終わる。
次に書かれた『若き芸術家の肖像』は長編で、教養小説……ビルドゥングスロマンである。
人生の様々なタイミングで試練が訪れ、立ち向かって勝つ、という話だ。
一人称なのも重要だ。
柳瀬尚紀さんは、
「ジョイスは普通の小説を、最初の二作品で完璧に書ききってしまったので『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』のような小説を書いたのではないか」
と、どこかで語っていたのを思い出す。
『ユリシーズ』の萌芽は、『若き芸術家の肖像』で、すでに現れているところがたくさんある。
例えば主人公の意識に合わせて一人称が展開するので、『ユリシーズ』の前半の、〈意識の流れの手法〉のはじまりを、そこに見ることもできる。
それから、主人公の名前。
スティーヴン・ディーダラス。
ディーダラスとは、ギリシア神話の工匠、ダイダロスに由来していて、『ユリシーズ』は、『オデュッセイア』という神話の英語での読み方であり、作品も、モチーフはオデュッセイアで、全編がそのパロディとなっている。
スティーヴンというのは、キリスト教最初の殉教者、ステパノに由来する。
新約聖書「使徒行伝」7章55~60節に出てくる人物だ。
せっかくなので、ウィキソースから引用しておこう。
☆
しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
☆
……と、ここにこういう風にでてくるのであった。
ジョイスはダブリンに生涯、固執した。
全ての作品の舞台は、ダブリンだ。
『ダブリナーズ』は平明なリアリズムの手法で書かれているが、『フィネガンズ・ウェイク』の頃には、実験的手法を用いていて、少数のエリートを想定読者にしていたのはあきらかだ。
『ダブリナーズ』から『ユリシーズ』の前半までがモダニズム、『ユリシーズ』後半から『フィネガンズ・ウェイク』までがポストモダン文学である。
ユリシーズの後半、というのはどういうことかというと。
ユリシーズ前半は意識の流れの手法を使っているが、後半からは「文体博覧会」とでも言えるような、実験的手法で様々な文体を駆使して描かれているのだ。
どう見てもポストモダン文学である。
☆
ダブリナーズが書かれた頃は短編小説が人気を博していた。
短編小説が人気になったのは十九世紀に、識字率が向上して、加えて交通手段の発達により通勤や帰宅後の息抜きに短い時間で読める娯楽として、短編小説が広まったからだ。
若き芸術家の肖像は、さっきステパノの話をしたが、この作品は逆に神……つまり全知の語り手……がいないことが重要なのである。
三人称を、だから放棄して、スティーヴンの意識に合わせた言葉が使用される一人称で書かれている。
十九世紀、チャールズ・ダーウィンの進化論のあとのこと。
フリードリヒ・ニーチェは、「神は死んだ」と言った。
そこから、神のように全てを見通せる語り手などまがい物で、登場人物もでっちあげにすぎないのだから、近代文学は結局、文学青年に答えを与えてくれないのだ、という風潮があったらしく、それが背景となって『若き芸術家の肖像』は、一人称を選択している。
そして、話はユリシーズへと向かう。
〈次回へつづく〉
その短編は毎回悲劇として終わる。
次に書かれた『若き芸術家の肖像』は長編で、教養小説……ビルドゥングスロマンである。
人生の様々なタイミングで試練が訪れ、立ち向かって勝つ、という話だ。
一人称なのも重要だ。
柳瀬尚紀さんは、
「ジョイスは普通の小説を、最初の二作品で完璧に書ききってしまったので『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』のような小説を書いたのではないか」
と、どこかで語っていたのを思い出す。
『ユリシーズ』の萌芽は、『若き芸術家の肖像』で、すでに現れているところがたくさんある。
例えば主人公の意識に合わせて一人称が展開するので、『ユリシーズ』の前半の、〈意識の流れの手法〉のはじまりを、そこに見ることもできる。
それから、主人公の名前。
スティーヴン・ディーダラス。
ディーダラスとは、ギリシア神話の工匠、ダイダロスに由来していて、『ユリシーズ』は、『オデュッセイア』という神話の英語での読み方であり、作品も、モチーフはオデュッセイアで、全編がそのパロディとなっている。
スティーヴンというのは、キリスト教最初の殉教者、ステパノに由来する。
新約聖書「使徒行伝」7章55~60節に出てくる人物だ。
せっかくなので、ウィキソースから引用しておこう。
☆
しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
☆
……と、ここにこういう風にでてくるのであった。
ジョイスはダブリンに生涯、固執した。
全ての作品の舞台は、ダブリンだ。
『ダブリナーズ』は平明なリアリズムの手法で書かれているが、『フィネガンズ・ウェイク』の頃には、実験的手法を用いていて、少数のエリートを想定読者にしていたのはあきらかだ。
『ダブリナーズ』から『ユリシーズ』の前半までがモダニズム、『ユリシーズ』後半から『フィネガンズ・ウェイク』までがポストモダン文学である。
ユリシーズの後半、というのはどういうことかというと。
ユリシーズ前半は意識の流れの手法を使っているが、後半からは「文体博覧会」とでも言えるような、実験的手法で様々な文体を駆使して描かれているのだ。
どう見てもポストモダン文学である。
☆
ダブリナーズが書かれた頃は短編小説が人気を博していた。
短編小説が人気になったのは十九世紀に、識字率が向上して、加えて交通手段の発達により通勤や帰宅後の息抜きに短い時間で読める娯楽として、短編小説が広まったからだ。
若き芸術家の肖像は、さっきステパノの話をしたが、この作品は逆に神……つまり全知の語り手……がいないことが重要なのである。
三人称を、だから放棄して、スティーヴンの意識に合わせた言葉が使用される一人称で書かれている。
十九世紀、チャールズ・ダーウィンの進化論のあとのこと。
フリードリヒ・ニーチェは、「神は死んだ」と言った。
そこから、神のように全てを見通せる語り手などまがい物で、登場人物もでっちあげにすぎないのだから、近代文学は結局、文学青年に答えを与えてくれないのだ、という風潮があったらしく、それが背景となって『若き芸術家の肖像』は、一人称を選択している。
そして、話はユリシーズへと向かう。
〈次回へつづく〉