第8話 十七歳の地図【3】
文字数 1,685文字
渋谷区宇田川町にあるタワーレコードは、音源をアルバムで買うCDショップだ。
シングルを買うときは、購入特典の、ミュージシャンのミニライブチケットを買うときくらいである。
インディーズのコーナーに立ち寄ったら、女子大生らしき姉ちゃんらがキャーキャー騒いでいた。
「『偉大なる大うそつき』って曲が最高なのー!」
と、説明台詞のように説明しながらキャーキャーしている。
手に取ってみると、ミッシェルガンエレファントというバンドの『マキシマム・マキシマム・マキシマム』という音源だった。
さっそく買ってみる僕だった。
まさかそのバンドがメジャーになったら、ジャパニーズロックの伝説のひとつになることになるバンドだったとは、そのときは思いもよらなかった。
のちに、愛読することになる文芸雑誌『リトルモア』の、ストリートノベル大賞を受賞した宮崎誉子『世界の終わり』は、そのバンド、ミッシェルに捧げられている。
それはまあ、後々の話なのだが、とにかく、そのときミッシェルを知ることになったのはラッキーだった。
その他、タワレコ限定商品で500円テープという企画があって、そこで売られたラインナップの、デビュー直後のGRAPEVINEとTRICERATOPSが店内で流れていて、当時の最先端のサウンドを知ることができたのも、嬉しいことだった。
今語った話は、僕が高校生のとき、ギンと一緒におのぼりさんとして上京したときのことである。
原宿では竹下通りと表参道、それから渋谷ではセンター街に宇田川町。
そこらへんが、僕らが絶対に立ち寄る場所だった。
数年後、僕は原宿の竹下通りでは〈原宿ルイード〉でライブを行い、対バンでアマチュア時代だったAqua Timezと同じ日のステージに立ち、渋谷では〈クラブブエノス〉でライブを行うことになるのだが、それはずっと後のことである。
それを言ったらRADWIMPSは、僕の通っていた学校の後輩が組んだバンドである。
わからない、というひとに一言付け加えると、それはものすごいことなのである。
話を戻す。
ネット通販がなかったあの頃、〈Scene〉を知って触れるためには、東京に行くしか方法がなかったのであった。
僕らは夜まで遊んだりショッピングをすると、ギンの伯母さんのやっているBARである〈ペレの家〉に立ち寄ることになるのが通例だった。
BARの閉店時間になると、ギンの伯母さんのマンションで寝泊まりさせてもらって、翌日、田舎に帰るのがいつものルートだった。
伯母さんの部屋は最初、駒場東大前にあった。
なので、記憶違いでなければ、駒場の銀杏並木を知っているということになる。
ギンの伯母さんはその後、京王線の明大前に引っ越しをする。
その渋谷のBAR、〈ペレの家〉は、鈍感な僕には当時、気づかなかったが、いわゆる文壇BARの一種だった。
なので、業界のひとがたくさんお酒を飲みに来ていた。
客層が、エンタメ業界のひとたちなのだ。
そういうひとたちに揉まれながら、僕らは成長していくのだった。
ギンは後に東京都国立市に長く住むことになり、僕もよく遊びに行く場所になる。
思えば、僕のまわりの男性陣はだいたい上京組だった。
そして、都落ちする運命にあった。
運命はいつだって過酷だ。
今になっても、そう思う。
☆
ある日、僕はギンの自転車の後部から、ギンに言った。
「僕、演劇部に入ることにしたよ。顧問教師に入部しないか、と誘われて、ね」
高校二年の初夏のことだ。
ギンは自転車の急ブレーキをかけ、止めてから、後ろを振り返った。
「まじかよ。るるせ、お前、そんな寄り道してる暇、あるのか?」
もっともな意見だった。
だが、僕は答える。
「やるからには全力だぜ。それはきっと、なにかの役に立つ」
ギンは、目を丸くして、それから冷静になって、
「お前はこうと決めたら絶対曲げないからなぁ。……頑張れよ」
と、ぶっきらぼうに言う。
運命の歯車が、回り始めていたのだ、そのときには、すでに。
もうすぐ、僕が十七歳になろうとしていたタイミングだった。
〈次回へつづく〉