第140話 ミスキャスト【3】
文字数 1,131文字
「おい、にーちゃん! 生中二つ!」
「へい、喜んでッッッ!」
なにを喜んでなのかは自分で言っていて不明だが、僕は厨房の麦酒サーバーでジョッキに麦酒を注ぎ、客席まで持っていく。
ここは大遊戯場・歌舞伎町。
歌舞伎町一番街の中央に位置する、新宿コマ劇場の二階にある飲み屋〈信玄屋形〉で、僕はバイトを始めていた。
☆
面白いエピソードはたくさんある。
だが、ひとつだけ書くとしたら、このエピソードだな、というのが存在する。
僕は〈信玄屋形〉で出たゴミの入ったゴミ袋を捨てに、コマ劇場の地下に下りる、従業員用のエレベータのボタンを押し、僕はエレベータが到着するのを待っていた。
ゆるやかな日々だった。
おだやかで、内心は煮えたぐっていたが、大学に聴講に行く以外は、たいして用事もない日々だった。
ぼけーっと、僕はエレベータを待った。
ひとは誰もいない。
エレベータが着くと、僕はゴミ袋を台車で運び入れた。
ゴミ捨て場へのボタンを押して、「閉じる」を押そうとしたとき、突如、ものすごく綺麗な声で、
「待って!」
と言われた。
ダッシュしてきた美しい衣装を身にまとった、僕とあまり年齢の変わらない女性が、エレベータに乗ってきて、「閉じる」を押した。
エレベータのドアは閉じた。
女性は、息が上がっている。
どこからどう見ても、それは女優さんだった。
新宿コマ劇場なのだから、そりゃあ女優や歌手がたくさん出入りするだろう、というのはあるけど、その女性は芸能と言っても、「舞台女優」さんなのは、すぐにわかった。
僕は生ゴミを台車に載せた、名もなき一般人である。
その僕をまっすぐ見ながら、息をぜいぜい吐いている舞台女優。
舞台女優は笑顔を僕に向けた。
僕も笑顔を返した。
僕も彼女も、どちらもなにも言わなかった。
ただ、目と目を合わせながら、二人とも、笑顔でお辞儀をし合った。
何故舞台女優だってわかるかって言うと、それは、この女優さんがコマ劇場に〈劇場〉を持つ、『演劇集団キャラメルボックス』の女優さんで、今が「本番中」なのは目に見えているからだ。
舞台から消えて、客席後方から登場する役回りで、このエレベータに乗っているのが、演劇部だった僕には、わかる。
見とれていると、女優さんは首をかしげ、それからオーバーなほどに僕に、にっこりと微笑み、そして、エレベータが到着すると、きりっとした目に変わり、急いで廊下を走り抜けていった。
僕は、しばらくその場で、ドキドキしていた。
狭いエレベータの中で、ぜいぜい息を吐いて肩を上下させていた女優さんの姿は、あまりにも美しく、なまめかしかったのだ。
僕は、働いている中で、帰郷することを考え出していた、それは、そのときの出来事だった。
〈了〉
「へい、喜んでッッッ!」
なにを喜んでなのかは自分で言っていて不明だが、僕は厨房の麦酒サーバーでジョッキに麦酒を注ぎ、客席まで持っていく。
ここは大遊戯場・歌舞伎町。
歌舞伎町一番街の中央に位置する、新宿コマ劇場の二階にある飲み屋〈信玄屋形〉で、僕はバイトを始めていた。
☆
面白いエピソードはたくさんある。
だが、ひとつだけ書くとしたら、このエピソードだな、というのが存在する。
僕は〈信玄屋形〉で出たゴミの入ったゴミ袋を捨てに、コマ劇場の地下に下りる、従業員用のエレベータのボタンを押し、僕はエレベータが到着するのを待っていた。
ゆるやかな日々だった。
おだやかで、内心は煮えたぐっていたが、大学に聴講に行く以外は、たいして用事もない日々だった。
ぼけーっと、僕はエレベータを待った。
ひとは誰もいない。
エレベータが着くと、僕はゴミ袋を台車で運び入れた。
ゴミ捨て場へのボタンを押して、「閉じる」を押そうとしたとき、突如、ものすごく綺麗な声で、
「待って!」
と言われた。
ダッシュしてきた美しい衣装を身にまとった、僕とあまり年齢の変わらない女性が、エレベータに乗ってきて、「閉じる」を押した。
エレベータのドアは閉じた。
女性は、息が上がっている。
どこからどう見ても、それは女優さんだった。
新宿コマ劇場なのだから、そりゃあ女優や歌手がたくさん出入りするだろう、というのはあるけど、その女性は芸能と言っても、「舞台女優」さんなのは、すぐにわかった。
僕は生ゴミを台車に載せた、名もなき一般人である。
その僕をまっすぐ見ながら、息をぜいぜい吐いている舞台女優。
舞台女優は笑顔を僕に向けた。
僕も笑顔を返した。
僕も彼女も、どちらもなにも言わなかった。
ただ、目と目を合わせながら、二人とも、笑顔でお辞儀をし合った。
何故舞台女優だってわかるかって言うと、それは、この女優さんがコマ劇場に〈劇場〉を持つ、『演劇集団キャラメルボックス』の女優さんで、今が「本番中」なのは目に見えているからだ。
舞台から消えて、客席後方から登場する役回りで、このエレベータに乗っているのが、演劇部だった僕には、わかる。
見とれていると、女優さんは首をかしげ、それからオーバーなほどに僕に、にっこりと微笑み、そして、エレベータが到着すると、きりっとした目に変わり、急いで廊下を走り抜けていった。
僕は、しばらくその場で、ドキドキしていた。
狭いエレベータの中で、ぜいぜい息を吐いて肩を上下させていた女優さんの姿は、あまりにも美しく、なまめかしかったのだ。
僕は、働いている中で、帰郷することを考え出していた、それは、そのときの出来事だった。
〈了〉