第24話 因果交流電燈グレイテストヒッツ【4】

文字数 1,160文字

 宮沢賢治『農民芸術論綱要』によると、昔のひとたちは乏しいながらもかなり楽しく生きてきて、それは芸術などいろいろあったから楽しく生きられたのだけれども、今は生存のための労働があるだけだ、と語られている。
 宗教は近代科学に置換されたけど、科学は暗く冷たい、と。
 そうしたらどうすればいいかというと、再び〈芸術を持つ〉ことだ、と宮沢賢治は当時流行った評論本からインスパイアされて、そう考えた。
 芸術を持てば、灰色の労働だけでなく、創造というものによって潔く楽しい生活を送れるようになるのだ、と結論する。
 ツッコミどころはあるかもしれないが、なかなかにファンキーな発想だ、と僕は思う。
 すごくハイデフなバイブスを奏でた文章だというのが、読めばわかるはずだ。

 現代人は社会が複雑化してしまったゆえに疲れがちで、隣の芝は青く見える病にも罹るほどに精神に余裕がない。
 だから、宮沢賢治の前述の芸術論は、実現できるかは別として、今でも有効な議論だと思う。
 まあ、書いた通り、こころに余裕がないことがほとんどだから、その芸術をやっても、妬みや恨みや憎しみや、後悔や嫉妬などと向き合う機会が多く、創作の世界であっても他の世界と変わらないけど、生きる喜びを芸術に昇華させるってことは、とても良いと、それでも僕は思う。
 宮沢賢治だって、カルトだと思われたし煙たがられたりしたが、それでも仏教説話をベースにした、不思議な物語をたくさん書いて、話によると、それは後世、語り継がれると本人は確信していて、実際に死後、認められた。
 願いとか祈りとか、たいそうなことをここで言うつもりはないけれども、〈詩女神〉に創作を捧げるとはそういう類いの物だと僕は考える。


 未だに文学史の中でどう位置づけて良いかわからないのが宮沢賢治であり、それなのに研究したいひとは後を絶たない、そういう作家だ。
 文学でほぼ最初に宮沢賢治から入った僕は、だから異端ではあるかもしれないが、それ故にラッキーだったかもしれない。
 高校時代の先生に感謝だ。
 前の項では、かなり不謹慎で不適切に書いてしまったけれども。


 僕は今、昔を思い出していて、自分の人生を再確認して、次があれば、だけど、これから先の創作活動のことについて考えはじめている。
 行き当たりばったりの人生だけど、筋道を辿ると、こうなるしかなかったような気さえ、してくる。
 僕が意図するところは、脳内の整理の側面もある。
 ごめんね、みんなに自分の整理整頓に付き合わせちゃって。
 でも、自己紹介になる文章は、残さなきゃ。
 それは、覆面であることが多いウェブ主体に活動している作家としては、レアケースだと思ってはいるけれども。
 中には、そういうひとがいても良いんじゃないかな、って勝手に思っている。
 これはそういう話だ。




〈了〉
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成瀬川るるせ:語り手

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