第103話 僕の心を取り戻すために【2】

文字数 1,148文字

 上京前に〈コンテンポラリー〉の洗礼を受けた僕だが、〈哲学書〉との本格的な出会いは、下北沢のヴィレッジ・ヴァンガードで、であった。
 ここで言う哲学書とは、構造主義、ポスト構造主義の、いわゆるポストモダンである。
 知を探るのがこんなに楽しいとは、思いもよらなかった。
 そして、メタフィクションなどの反則技上等のポストモダン文学。
 最高だった。
 僕はいろいろ買って読んで、血肉化すべく、それらを歌詞などに反映させた。
 思えば、だから、上京二年目から三年目にかけての、バンド活動をしていた一年弱の、そのなかのさらに数ヶ月の間だけ、魔法のiらんどで書いていた500文字小説が、僕がそのころまでに学んだことの集大成のようなところがあった。
 僕は文章では、少しは歓迎された。
 バンドの人気はさっぱりだったけども。
 あの頃書いていた、いや、書こうとしていたものはコンテンポラリー的なものだった。
 人気がさっぱりでも、僕は僕なりに、アーティストをしていたのだ。

 その前に。
 コンテンポラリーは、基本的にはハイアートの文脈だ。
 アートにはハイとロウがある。
 ロウアートは、大衆芸術、と呼ばれる。
 大衆が観て楽しめるアートである。
 一方のハイアートは、勉強しないと〈読めない〉アートである。
 ハイアートは作り手、受け手の両方が教養を備えてないと、そもそも話にならない。
 だから、低学歴の僕には本来なら追い出される世界が、ハイアートである。
 しかし、作り手でその壁を突破することも、可能だ。
 ただし、生来的に。
 それを〈生の芸術(きのげいじゅつ、と読む)〉とか〈アール・ブリュット〉、もしくは英語読みで〈アウトサイダー・アート〉と呼ぶ。
 正規の芸術教育を受けなかった者、特に精神疾患を患っている者がつくる芸術、それをアウトサイダー・アートと呼ぶのだ。
 僕はそこに属する、と勝手に思っている。
 要するに、僕は病気で正規の教育をあまり受けられなかった人間だ、ということだ。
 そんな人間が芸術を模索するのは、アウトサイダーの文脈でどうにか説明できる、ということでもある。

 回りくどい話をしてしまったが、教育を受けないでつくる奴はまがい物だ、という学歴至上主義にささやかに叛逆するには、アウトサイダーであることは、プラスに働く。
 問題があれば、キモがられる、という事実と向き合う人生を送らなければならない、ということであろうが、それはそれとして、僕は僕のやりたいことをすることにした。

 牛丼屋に入り、ひたすら七味トウガラシを牛丼にふりかけ、七味トウガラシ山盛りで肉すら見えなくなるほどになった物をガツガツ食べる日々になった僕。
 僕は牛丼を食べているのか、七味を食べているのか。
 わからない。
 けれど、旅は続く。




〈次回へつづく〉
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成瀬川るるせ:語り手

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