第18話 ガダラの悪霊【5】

文字数 1,814文字

 唯物史観の社会主義が表舞台に出てくる前にあった空想社会主義。
 もしくはユートピア論だが。
 果たしてユートピア論は、それ自体もヤバかったのだろうか。
 実は、そこには、ドストエフスキーの小説にも影を落とす、ロシア正教会から敵視されていた〈異端派〉の跋扈があった、と僕は思う。
 ドストエフスキーのいた時代、めちゃくちゃ異端派の数々が流行っていたのである。
 異端派と空想社会主義で、どう線が結ばれるのか。
 今回はそれを探ってみようと思う。







 ドストエフスキーがいた頃のロシアでは、キリスト教の数種の異端派が勢力を拡大していた。
 もちろん、後々、露西亜革命にも、そのなかの派閥で、一枚噛むことになる団体も出てくる。
 異端派はなにに対しての異端かというと、それはロシア正教会からの異端だ。
 例えば鞭身派は鞭で身体を叩いて、エクスタシーを得ながら、みんなで踊り狂う。
 一方、去勢派は、男女ともに去勢する。
 去勢の前に子供を産んでおくことが多いので、去勢派にメンバーがいなくなることはなかった、という。
 その他、大勢の男女で乱交パーティを開き、誰が誰の子供だかわからないようにして生んでから、子供たちを共同管理する一派もあった。
 僕は〈異端派〉と書いてしまったけれども、「分離派」という表記の方がポピュラーだ。
 そして分離派を現地では〈ラスコーリニキ〉と呼ぶ。
 そう、ドストエフスキー『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフの名前の元ネタなのである。







 さっき僕はさらっと「大勢の男女で乱交パーティを開き、誰が誰の子供だかわからないようにして生んでから、子供たちを共同管理する一派もあった」と書いたけど、なかなかにクレイジーである。
 それで僕が思い出したのは、アメリカの作家、フランチェスカ・リアブロックの『ウィーツィ・バット』シリーズである。
 このウィーツィ・バットという作品は、ヒロインの女の子一人と、ボーイフレンドの男の子二人がいて、その三人の物語だ。
 物語が進むにつれて、ヒロインは、三人で結婚したい、と望む。
 そしてヒロインが取った行動は、三人でセックスをして、身ごもっても、どちらが親なのかは調べないで、三人で子供を育てる選択肢を選ぶ、というあらすじの物語である。
 僕はフランチェスカ・リアブロックを渋谷にあった、〈ブックファースト渋谷文化村通り店〉で購入した。
 シリーズでの僕のお気に入りはバンドを組んで破滅する『チェロキー・バット』である。

 東京にいた頃のある日、たまたまプロドラマーのシンキさんが、僕がリアブロックを読んでいるのを見つけ、
「へぇ。るるせ。おまえ、日本人でウィーツィ・バットを知っている奴はまだ少ないぜ? なのに、お前はどうしてフランチェスカ・リアブロックを読んでいる?」
 と、首をかしげられたことがあった。
 本国ではかなりの人気を誇っているそうである。
 よく渡米しているひとだから、たぶん、それはその通りなのだろう。

 話を戻そう。







 ユートピア論がどう、異端派と繋がったか、の話だった。
 古今東西、ユートピア論と言えば〈子供を共同管理する〉思想が圧倒的に多く、空想社会主義も同じく、次世代を担うことになる子供の管理のことで、ああでもない、こうでもない、と勉強会を開いて頭を捻っていたらしい。
 ユートピア論で子供を共同管理するのは、リュクルゴスのスパルタ、プラトンの『理想国家』、トマス・モアの『ユートピア』も、またはイスラエルのキブツもそうである。
 子供は共同で管理する。
〈家族〉を解体し、子供を共同管理するのがこの手のユートピア論の基本なのである。

 要するに、これは〈子供〉の管理の問題としての〈統治〉の問題に関わってくる。
〈異端派〉も〈ユートピア論〉も、今までとは違うタイプの統治の思想と実践によって国を乱そうとしている、と睨まれてもおかしくはない。
 異端派は動いていたし、社会主義も動き出すだろう、と結論したのだろう。

 そしてドストエフスキーは捕まり、シベリアから戻っても、一生涯の間、当局の監視のもとに置かれることになった。
 ドストエフスキー『賭博者』はギャンブルに狂ったドストエフスキーがその経験をベースに本を書いたのだが、それは当局の監視の目があるから、逆に自分はこんな奴だ、と芝居を打って、ギャンブルに嵌まった振りをして借金つくってダメな自分を見せたのではないか、とも言われている。




〈次回へつづく〉
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