第55話 世界の果てのフラクタル【12】

文字数 1,451文字

 高校一年生の頃。
 僕は放課後、のちに生徒会長になる女の子の恋バナを、二人っきりになった教室でよく聴いていた。
 西日が射す教室の中。
 僕は会長が好きな男子生徒と会長の恋愛の進展を、頬杖をつきながら、会長と向かい合いながら聴いている。
 自分の恋バナを話している女の子の姿っていうのは、ほぼ例外なく可愛い。
 僕は好きなミュージシャンの楽曲を聴くかのように、会長の話に耳を傾ける。
 たまに話にツッコミを入れると、しどろもどろになる会長も、可愛かった。
 下校時刻になると、見回りの教師がやってくるのだが、その教師が課外授業の国語の女性教師だったり、音楽教師でブラスバンドの顧問女性教師だったりすると、
「あっ」
 と、言って、開けた扉を閉めて、帰っていくのだった。
 放課後の楽しい時間だった。


 なにかの間違いで音楽教師と教室、放課後に二人で喋っているときに会長が現れると、
「あっ」
 と言って、会長が開けた扉を閉める。
 国語の課外授業のときも、下校時刻まで国語教師と喋っているものだから、会長がやっぱり扉を開けてから、
「あっ」
 と言って、扉を閉める。

 コントかなにかのようで、思い出してみると、吹き出してしまうエピソードである。
 そういう高校一年生の放課後の僕だった。


 ある日、国語の授業で、国語の課外授業の先生が宮沢賢治の映画を流したことがある。
 女子生徒たちは、いろいろあった末、ラストに宮沢賢治役の俳優が、イーハトーブ……岩手の森の中で満面の笑顔を見せて終わるシーンに、
「素敵……」
 と、声を出して感銘を受けていたのに対して、男子生徒たちは声を出して、
「狂ってる……」
 と、漏らしていた。
 そのコントラストに、僕は愉快になって、これまた吹き出しそうになった記憶がある。
 狂ってない奴は文豪にはなれないよ、って思うが、当時の一般的な高校一年生くらいの男子には、わからないものなのかもしれなかった。


 国語の授業で宮沢賢治の映画を流したのは、先生の趣味だが、音楽の女性教師もまた、自分がオススメな男性のドキュメンタリーを流した。
 それは誰か。
 音楽家か?
 いや。
 微妙に違った。
 正確には、有名なバンドをプロデュースした美術家、である。
 その名は、アンディ・ウォーホル。
 偉大なる歌う詩人、ルー・リードをデビューさせた人物である。
 宮沢賢治も詩人だし、ルー・リードも詩が最高であり、ポエマーだった僕のテンションは、どちらのときも爆上がりであった。

 ウォーホルといえば、リキテンスタインとともにポップ・アートのイコンである美術家だ。
 みんな、ウォーホルの、シルクスクリーンの作品や、キャンベルスープの缶の絵やコーラ瓶の絵は、どこかで観たことがあるのではなかろうか。
 または、黒人であるグラフィティ・アーティストのバスキアをスターダムにしたウォーホルの偉業を、知っているのではなかろうか。
 グラフィティアートといえば、キース・ヘリングが当時、アクトアゲインエイズのシンボルになっていたし、美術も日本で〈ネオポップ〉の胎動期だったことも考えると、その音楽教師がウォーホルのドキュメンタリーを生徒たちに見せてオススメすることは、かなりハイセンスだったかもしれない。
 田舎にしては、だけど。
 今回はアメリカの話、ということで、一応僕はウェブ作家をやっているので、作家繋がりでフォークナーの話にも繋げたいし、項を改めて、もう少し掘り下げて、この、音楽の先生の〈オススメ〉がどう良かったか、について語りたいと思う。





〈次回へつづく〉
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

成瀬川るるせ:語り手

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み