第70話 真夏の夜のサクリファイス【5】

文字数 1,110文字

 指先だけの遊戯は、さまざまなところで行われた。
 僕はただただ、いろんな場所で、指先を這わせた。
 いつしか僕は、死ぬことを考えていた。
 だが、県北の演劇の大会が終わるまでは死ぬわけにはいかなかった。


 ある日、夏休みの読書感想文用の本を借りた、というカケが、げらげら笑いながら、僕にその本を差し出す。
「るるせちゃん。この本、君にぴったりだよ! うひゃひゃひゃひゃ。読んでみなよ」
 差し出された小説は、太宰治の『人間失格』だった。
 カケから見ると、僕、成瀬川るるせが人間失格だ、という意味で読め、と言ったのは丸わかりで、バカにしているなぁ、とは思ったけれども、受け取って、その夜に、読んだ。
 読んだ夜、僕は衝撃を受けた。
 カケはバカにしていたけれども、太宰治はすごいということがわかった。
 文章が上手いかと言うと、下手だ。
 いわゆる〈下手うま〉と呼ばれるものだ。
 下手なはずなのに、抜群に上手い。
 読者に語りかけるその話者は、気取りながら、おどけていながら、泣いている。
 泣いているところが、逆に滑稽だ。
 むしろおどけているところより、泣いていることに、カケのような斜に構えた読者は、笑うだろう。
 だが、僕には太宰が自分の仲間のように思えた。
 僕は太宰治を気に入った。
 古本屋で、100円で売られている太宰の新潮文庫を買って、たくさん読んだ。
 のちにちくまの全集を買ってすべて読むことになる太宰治だが、今では捨てろと言われて捨ててしまった。
 まあ、キンドルで100円払えば全集は買えるし、青空文庫なら無料だ。
 今は良い時代になったものだ。

 僕は太宰からさかのぼって、芥川龍之介も、たくさん読むことにした。
 最高だった。
 僕は、死地のなか、文学に目覚めていく。
 僕は夜な夜な、文学を読む。
 超絶的にメジャーどころの、太宰と芥川、さらにさかのぼって夏目漱石も。

 その頃の僕を癒やすのは、保険医と文学、それから歌や詩だった。
 死に物狂いで生きる中、同じく死に物狂いで生きた文豪の本を読む。


 僕の中で、僕と太宰が重なる。
 典型的な太宰の読者像である、恥ずかしいけど、それが真実だった。


 この指はもう詩なんて書けないほど汚れちまったし、トカトントンという音は響き渡り、ただ虚脱するだけの人生になってしまったけども、それでも僕は、たまに死にかけながら、生きることになる。

 僕は今も、知らないひとから「ださい」と言われることがある。
 上等だ。
 太宰が好きでお洒落なわけがないだろう。
 文学がお洒落なわけがないだろう。
 僕の人生は堕ちていくだけだったが、坂口安吾が「堕ちろ」というときの心境と同じくらいには、僕は笑っていた。




〈次回へつづく〉
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成瀬川るるせ:語り手

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