終章    2016年(3)

文字数 1,455文字

 2016年(3)
 


 それから8年、淳一や地元の人たちの応援もあって、瞬の農業もここ数年で本格的に軌道に乗り始める。一方未来の方も子育てが一段落し、近所にあった民家を改修して自然食レストランを始めていた。そして今日、翔太の8歳となる誕生日祝いに、久しぶりにみんながそのレストランに集まったのだ。50をとうに過ぎた両親と、80前後という祖父母たちに囲まれ、翔太は元気一杯走り回った。そして楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、先ずはバスの時間を気にする淳一が席を立つ。それから程なくして、まだ週2回勤務医として働いている慎二も、優子を連れ立って帰っていった。今2人は出雲空港にいて、優子がふと思い出すように、慎二をマジマジと見つめて声にした。
「でもおかしいわよね。帰り際、どうしてあんなに泣いたのかしら? だって、バスで30分とかってくらいのところにいるんでしょ? 瞬くんのお父さん……」
「まあそれだけ、親しいってことなんだろ? 年に何回かしか会えないわたしらとは、そりゃあぜんぜん違うさ、どうしたって……」
 きっとそんなことが気に入らないのだろうと、慎二は優子を見ないまま思った通りを口にする。さっきレストランで、淳一が出て行くのを皆で見送っている時、優子はふと翔太のことが気になった。後ろを振り返ると、翔太が席に座ったまま下を向き、まるで忍び泣くように涙をポロポロと流していたのだ。ただそんなこともほんの数秒で、すぐに袖口で涙を拭い、翔太は淳一を追い掛け走っていった。
 ――あれは、いったい何だったんだろう?
 本当に、帰ってしまうのがただ悲しかったから? そんな疑問を口にしようとすると、ちょうど2人の乗り込む便のアナウンスが流れる。
 ――どうせ、大したことじゃないわね……。
 そう思い直し、優子はゆっくりと立ち上がった。そして既に歩き始めている慎二の後を追って、搭乗ゲートの方に歩いていった。
 そうして、2人が予定していた便に乗り込んだ頃、ようやくレストランの後片付けが終わる。翔太は先に自宅に帰っていて、今頃はプレゼントされたダブレットでYouTubeに釘付けになっている筈だった。そろそろ日も暮れかかる頃で、未来は急いでレストランの戸締まりを確認し、先に表に出ていた瞬に声を掛ける。
「瞬はどうする? もう家に帰れるの?」
「いや、少しだけ畑に寄ってから帰るよ。そうだな、1時間も掛からないと思う」
「そう、じゃあ夕食の準備して待ってるから……遅くなるようなら電話ちょうだい」
 未来はそう言って、1人家へと続く一本道を歩いていった。そんな後ろ姿が小さくなっても、瞬はその場から動かなかった。畑に向かう様子も一切なくて、やがて思い出したようにポケットからスマホを取り出す。しかし連絡先を呼び出したところで、彼はまた電池が切れたように動かなくなった。
 きっと、もう間に合わない。電話を掛けたところで、出て欲しい相手は既にこの世にはいないだろう。そんなことを心に思い、彼はスマホの主電源を切って再びポケットにしまい込む。そうして、下を向き両手で顔を覆ったその時、随分久しぶりとなる思念が頭に響いた。
 ――彼は、苦しまなかったよ……。
 驚いて顔を上げると、やはりそこにはいつもとおんなじ顔があった。豊子と京が並び立って彼を見つめ、少し下がったところには、滅多に現れない江戸聡子の姿もある。紛れもなく、思念はその聡子のもの。苦しまなかった? どうしてそんなことがあんたたちに分かる? 彼がふと、心にそう思った時だった。
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