第1章  日常 - 電信柱の少女(2) 

文字数 2,495文字

                電信柱の少女(2)


「どうしたの? 」
 声にしてみるが返事はない。
「そんなにギュッと握ってると、お手手が痛くなっちゃうよ」
 だから俺はそう続けて、ゆうちゃんと向かい合うようにしてしゃがみ込んだ。すると正面にある大きな瞳が、俺の視線を避けるように時計回りにぐるりと回る。そうして、少女は自分の足元をジッと見つめ、それでも途切れ途切れに言ったのだった。
「誰にも……見せちゃいけないの。ぎゅっと、してないと……いけないの……」
「それは誰に言われたの? お母さん? それとも、おじさんの方かな?」
 するとゆうちゃんは下を向いたまま、「おじさん……」とだけポツリと返す。
 ゆうちゃんはその〝おじさん〟とやらと、目の前にあるアパートで暫く一緒に暮らしていた。母親もいないわけではなくて、定期的に帰ってきてはいるらしい。そんなことをポツリポツリと返しながら、依然、彼女の身体は小刻みに震えている。
「さ、おじさんに言わないから、お手手広げて見せて頂戴……」
 手に何か痣でもあるのか、とにかくおじさんとやらは、人前ではグーをしていろと言っているらしい。それでも何度かの俺の言葉で、ゆうちゃんはようやく両手を差し出してくれる。勿論掌を見せたからって、彼女の身にこれ以上何か起きるわけはない。しかしそんなことを知らない彼女にとっては、それなりの恐怖に打ち勝ってのことなんだ。そんなふうに感じて、俺は差し出された両手をついつい握りしめたくなる。もうちょっとそれらしく、例えば身体がどことなく透けて見えるなら、俺は絶対にこんなこと思わない。ところが目の前にいる少女は、見ているだけならまるで人間と変わらなかった。たまに現れる色付きの奴らは、実際そこにはいないくせに、皆素晴しい臨場感を伴って現れる。
 とにかくそんなわけで、当然俺の差し出した両手は空を切り、一瞬だけ彼女の拳と重なり合った。それを見たゆうちゃんの顔は、まさに俺が想像していた通りのもの。死んでいるのも知らず、死に至った姿のまま現世に留まり彷徨っている。だから手品でも見たように目を見開き、まさに驚いた顔を俺へ向けた。そしてその時、拳からスッと力が抜けて、ゆうちゃんの掌がゆっくりと開かれる。
 ――ふざけるな……。
 目を疑った。 
 ――ふざけやがって……。
 続いてすぐに、焦げ付くような怒りが込み上げてくる。
 ゆうちゃんの掌に、無数の小さな火傷の痕があった。皮が剥け、膿みが滲んでいるものや、瘡蓋ができかけていたりと1日や2日でこうはならない。火の点いている煙草を何度も押し付け、そのまま放置していればこうなるのか? おじさんとやらか? それとまさか母親の方か? 吐き気にも似た憤りが駆け巡り、俺はただただそんなことばかりを考える。堪らなかった。こんなに辛いのは初めてのことだ。だいたい、ここまで小さな子供だなんて反則だろう! 頭の中で、そんな思いだけがぐるぐると渦を巻いた。普通なら、一生掛かって体験するくらいの苦痛を、ゆうちゃんはこんな年齢で背負い込んでしまった。そして今、きっと何かをして欲しくて俺の前に現れた。こんな時、俺はたいたい同じようなことを口にする。相手に合わせた言葉を選び、ここはもうあなたのいるべき場所じゃない――ってことを誠心誠意訴えるんだ。そうしておいて、暫く相手の反応を窺うと、
「どこに向かえと言うの?」 
「わたしが死んだ? 馬鹿なことを言うんじゃない……」
 だいたいは、こんな感じの答えが返ってくる。ただゆうちゃんからのはこんなんじゃなかったし、俺だっていつもより、数段優しい感じで話したさ。それでもやっぱり、ゆうちゃんからの返事は〝イエス〟じゃない。そして結局、俺の思いが通じたのかどうか、本当のところはまるで分からないままだった。
「ゆうちゃん、ここにいたいの……」
「どうして? ここって、寒くない? 」
「…………」
「それに、暗いし怖いでしょう?」
 俯いたまま黙ってしまったゆうちゃんへ、俺は更に明るい声でこう言ったんだ。
「そうか、ゆうちゃんは帰るところが分からないんだね……だから、ここにいたいって思うんでしょう?」
 そんな声に、ゆうちゃんは顔をフッと上げ、少しだけ力の籠もった声を返した。
「おじちゃんと、一緒に行きたい……」
「おじちゃんと一緒に? 」
 こんなこと言われたのは初めてだった。だから最初は、まさか俺のことだなんて思わない。
「おじちゃんのところ、いいところ? 痛くないの?」
 こう聞かれて、〝おじさん〟ってのが俺のことだとやっと知る。だから咄嗟に、
「痛くなんかないよ。遊園地みたいに楽しくて、お空の上をジェットコースターに乗っていろんなところに行けるんだ。だからね、そこはゆうちゃんにとっても、もの凄くいいところだと思うよ。そうだ、これから一緒に探しに行こうか? 痛くなんか全然なくて、明るくてあったかくて、天国みたいにいいところ……」
 と、まさに本題を切り出してしまった。するとそれだけですべてを悟ったように、ゆうちゃんの表情がパアッと明るくなる。ただそんな印象も一瞬のこと。赤黒く爛れたところが引き攣れたのか、すぐにその顔を歪ませてしまうのだ。そしてそのまま、なぜか俺から背を向けてしまった。 
 そこからのシーンは、できるなら記憶から消し去りたいと強く思った。そんな一瞬の笑顔の後すぐ、ゆうちゃんはあまりにたどたどしい歩みを見せる。両足を引きずるように歩くその姿は、見事なまでに俺の心に突き刺さった。涙腺は緩み始め、そんな歪んだ視界の中、彼女は古ぼけたアパートの外階段を上がっていった。
 ――きっと、あのアパートのどこかに、ゆうちゃんの死体がまだあるんだろう。
 そんなものを目にした後、彼女は天へと旅立つのだろうか? それとも旅立てない理由がアパートにあって、そんなものとの決別の為に向かったのか? ただどっちにしても、こうなった後の俺にできることは、ゆうちゃんが成仏できるようただ祈るだけだった。
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