第5章  現実 –  25年前(3)

文字数 1,432文字

                  25年前(3)


「大丈夫、ですか?」
 そんな瞬の声に、老婆は微かに顔を上げた。
 クシャクシャの顔が眩しそうに歪んで、一瞬だけ何かを言いたそうな目を見せる。しかし声にはならず、代わりに老婆の膝がカクッと崩れた。身体がフッと沈んで、そのまま前のめりに倒れかかる。が、幸いすぐ傍に立っていたお陰で、彼は咄嗟に老婆の身体を受け止めるのだ。
 老婆にはまだ意識があって、瞬の手を借りながらも再びなんとか立ち上がる。
 それから瞬は、救急車を呼んで病院に向かうか、せめてタクシーで家に帰ることを強く勧めた。しかし老婆は頑として首を縦に振らない。弱々しい笑顔を見せながら、最後まで大丈夫だと言い張った。
 結局、彼女は深々とお辞儀を見せて、来た道に向かってヨタヨタと歩き始めてしまうのだ。
 ――大丈夫じゃないよ……そんなわけ、ある筈ないじゃないか……!
 瞬の目に映る老婆は、もはや完全に色を失っていた。黒々とした影が全身を覆って、ちょっと距離を置くと黒い塊が歩いているように見える。
 普段街中で目にするそれは、殆どの場合そこまでにはなっていない。なんとなく黒ずんで見えるとか、その程度のことなのだ。ただそのくらいでも、1週間から持ってひと月も経てば、その人はこの世から確実にいなくなってしまう。
 瞬は小さい頃、母親から黒い影のことを病気なんだと教わっていた。死に近付けば近付く程に、その姿全体が黒くなっていく。ただ顔にある目や口は見えて、表情だってある程度なら分かる。
 ところが死の間際になると、その肌の色から洋服、履いている靴までが黒一色で、その姿はまるでコールタールを塗りたくったように映った。
 中学に上がる頃になって、彼はそれを死神じゃないかと思い始める。それがちゃんと存在していることも、意外と簡単に知ることができたのだ。
 例えば人が急にしゃがんだりすると、黒い影がほんの一瞬姿を見せる。急な動きに付いていけず、姿そのままの影が立ったままで残るのだ。
 ただそれはほんの一時のことで、すぐにしゃがみ込んだ身体に重なり戻る。
 ところがそれは、本当のところ死神なんかじゃなかったのだ。瞬がそんな事実を知ることになるのも、去り行こうとする老婆を追い掛けたからだった。
 彼はその時、老婆の後を迷わず追った。
 行きたいところがあるなら、自分が負ぶってでも連れて行くと告げたのだ。
 すると不思議なことに、さっきは頑として受け入れなかった老婆が、まるで逆らうことなくスッと答える。
「病院に、行きたいです……」
 瞬は最初、自分の身体を診て貰いたいんだと素直に思った。ところが背負って歩き出すと、老婆は向かうべき病院名と、そこに誰がいるのか、を口にする。
「そこに、おじいさんがいます……」
 一瞬、何を言ってるのかという感じだった。それでもすぐに、それが老婆の夫のことだと気が付いた。
 長年連れ添った夫が、どうやら今向かっている病院に入院している。
 老婆は自分の死が近いことを知って、だからこそ会いに行きたいと思ったのか?
 ――ご主人の方も、相当悪いんだろうか?
 続いて浮かんだ疑問を胸に、彼は再びタクシーに乗らないかと聞いてみる。しかし老婆からのリアクションは何もなく、ただ辛そうな息使いだけが耳元に届いた。
「とにかく、このまま病院まで行きますから……もし辛かったら言ってくださいね」
 瞬は仕方なくそう言って、それ以降はただひたすらに病院を目指して歩き続けた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み