第4章  見知らぬ世界 – 金田裕次

文字数 1,748文字

                   金田裕次


「なんだか、ずいぶん古くさい建物ね……」
「それ程でもないだろう? まあ10年20年くらいは経ってるかな……まあ、とにかく、確かここの5階の筈だ……」
「あの人、随分偉そうな口聞いていたから、どんなに立派なマンションかと思ったら、何よこれ、賃貸じゃない。それもまるで団地みたい……」
 ゆっくり車から降り立った矢島愛菜がそう言って、運転席に座る男へ顔を向けた。
 男は洒落たスーツに身を包み、ハンドルを握ったまま愛菜を見上げる。そして幾分辛そうな表情を見せ、愛菜へと、静かな声で言うのだった。
「まあそう言うなよ、何から何まで彼女のお陰なんだ。元々ここまで考えてたわけじゃないんだから、こう上手く事が進み過ぎると、いつか罰が当たりそうで怖いくらいだ……」
 そんな男の声に、愛菜はすぐに何事を言い掛ける。しかし開きかけた口をそのままにして、ふうっと大きく息を吐いた。
 男の名前は金田裕次。矢島が契約していたコンサルティング会社の社員で、防犯のプロという触れ込みで派遣されたが、実際は矢島の警護という意味合いの方が強かった。矢島は日々何かに怯えていて、そんな彼を安心させる為に、金田は着任後すぐに様々な対策を講じていた。屋敷中を見張る防犯カメラや赤外線センサーに加えて、最新式のセキュリティシステムを導入する。更に彼は、屋敷内で働く人間すべてに目を光らせた。
「俺の命を狙っているやつがいる!」
 そう訴える矢島の言葉を、当初金田は完全に信じ込んだのだ。そう言う意味では、金田という男は実に職務に忠実だった。この男との関係を上手く保っていれば、間違いなく矢島は死なずに済んだ筈。ところがだ。占い師との関係修復に失敗した矢島は、以降金田さえも信用しなくなる。
 ――こうなったら……いつなん時裏切られるか分からん!
 そんな恐怖に金田までを遠ざけた。そしていつしか、
 「せいぜい、傍にいる人間に気を付けるんだな……」
 そんな占い師の言葉が日に日に重く伸し掛かり、とうとう妻にさえ本音を漏らさず死んでいく。そして今日谷瀬親子の葬式が、死後10日経ってやっと行なわれることになっていた。どうして死後10日も経ってからかと言えば、そもそも警察から遺体が戻ってこなかった。特に娘の死体に不審な点が多く、司法解剖に回され、昨日になってやっと住んでいたマンションに戻ってくる。連絡を受けた矢島愛菜は、当初参列する気など毛頭なかった。ところがそんな彼女を、金田がどうしても許そうとしない。
「俺たちには、2人をちゃんと弔う義務がある……」
 そう言って譲らず、激しい言い合いにまでになっていた。
 きっと愛菜は金田の言葉で、その時のことを思い出したのだろう。何か言い返せばまた同じことになると、金田から視線を外してあらぬ方を向いたのだ。そして金田の方も、黙ってしまった愛菜に向けて、
「とにかく俺は、車を駐車場に入れてくるから、何なら先に行ってて構わんから……」
 そう言った後再び、マンションの5階辺りへ目を向けた。
 既に聞いていた開始時刻は過ぎている。きっと今頃は弔問客を背にして、手配した坊さんがお経を唱えているだろう。金田はそんなことを思いながら、車のエンジンを再び始動させた。彼が乗っているのは英国製の最高級車で、8気筒エンジンを搭載し、たった4、9秒で時速100キロまで加速できる。これを金田が買いたいと言い出した時、派手なクルマにしか興味のない愛菜は、
「そんなのがどうして何千万もするの? ただのおじさん車でしょ?」
 と、あの時と同じように言い返してきた。それは、今から半年以上前に遡る。
「どうしてそんなに掛かるの? たかがセックスするだけしょ?」
 愛菜が目を見開いて、金田にそう返したのだ。
 たかがセックス――そうだったとしても、相手は見ず知らずの男で、お世辞にもいい男だとは言い難い。更に住み込みで働いて貰うには、勤めていたクラブを辞めて貰うことにもなるのだ。当面の生活費も考えねばならないし、端金で頼んだところでまさに受ける筈がない。加えて他言無用が必須条件というのだから、どうしたってそれなりの金額を提示する必要があった。そしてそもそも、すべては矢島本人がキッカケだったのだ。
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