第6章 混沌 -  日御碕(2)

文字数 1,525文字

                 日御碕(2)


「何してるのって、遠くから聞こえた気がして、わたし後ろを振り返ろうとしたの。そうしたら、ちょうど道路の反対側に何かが見えて、あ、瞬がいるって思っちゃったのよ。きっと看板が立て掛けてあったとか、そんなことだったと思うんだけど……ただね、その時のわたしには、〝あなた〟なんだって思えちゃったの……」
 そうして、トラックが交差点を曲り切ってやっと、運転手は中央車線付近に立つ未来に気が付く。慌ててブレーキを踏み込み、ガードレール目がけてハンドルを切った。
 ところが後ちょっとというところで、トラックの横っ腹が未来の全身にぶち当たるのだ。幸い反対車線に車はなかったが、もしそうでなければ彼女は今頃生きてはいまい。
 そしてその日の宵の口には手術も終わり、それから更に数時間後のことだった。
 優子は散々思い悩んだ挙げ句、病院から目黒浩一に電話を掛ける。何がどうあれ、つい先日まで恋人だった相手なのだ。生き死にに関わる状態にあることを、優子は伝えるべきだと心の底から思えたのだった。だから突き上げるムカつきを必死に抑え、未来の身に起きた現実だけを淡々と伝える。
 見舞いに来て欲しいとか、そういうのじゃないと付け加え、それでも心配する言葉くらいは聞けるだろうと思っていた。
 ところがだった。返ってきた言葉が予想外過ぎて、優子は一瞬その意味が理解できない。何? 何言っているの? そう思った時には、受話器は耳から微かに浮いた。
「目が覚めない? へえ、そりゃいいじゃないですか! あの瞬とかいう糞野郎と、いつまでもお幸せにって伝えてくださいよ、しかしまた、こりゃあ笑える!」
 ここまでだった。優子は慌てて電話を切ろうとするが、
 ――ねえお母さん! 
 そんな声に続いて、嫌らしい大笑いが漏れ響いてくるのだった。 

「そうか、そんなことがあったんだ……」
 瞬がそう言って、ゆっくりと流れる川面から、遠くに見える山々へと視線を移した。
 2人は松江駅を右手に曲がり、山陽本線に沿って流れる大橋川を前にしていた。
「未来、もういいよ、もうこれで〝お終い〟にしよう……」
 いきなり瞬が現れて、そう言った後もう一言だけボソッと呟き、彼はさっさと背中を見せて立ち去ろうとした。溢れ出る心の叫びに突き上げられて、未来はその瞬間の思いを声にする。ちょっと待てと、気持ちを聞くくらいのことができないかと言って、足を止めた瞬の背中を睨み付けたのだ。もしその時、そのままの状態がもう少し続いていたら、
 ――いっそのこと死んでくれてたら、忘れることだってできたのに……。
 そんな思いを、彼に向かって口にしたかもしれなかった。しかしそうなる前に、瞬は未来へと思念を届ける。振り返ることなく、その思いを送り届けてきたのである。
 ――未来のお母さんが、暗い部屋で1人泣いてたんだ。未来の名前を言いながら、僕の目の前でおいおい泣くんだ……だから……だから……。
 だから何? 未来は一瞬だけそう思った。しかしすぐに「あっ」と思って、彼が伝えようとしている意味に気が付く。その途端、フッと肩の力が抜けて、顔の中心が急にカアっと熱くなった。すると透けている瞬の姿が更に霞んで見えるのだ。溢れ出た涙が目に溜まって、彼だけでなく風景すべてを歪み滲ませていくようだった。未来は声を上げてわんわん泣いた。時折通行人が通り掛かる度、息を止めて嗚咽の声に必死に耐える。しかし通り過ぎればまたすぐに、更なる涙が頬を濡らした。そしてふと気が付けば、未来の傍には瞬がいて、さっきまでの頑な表情は跡形もなく消え去っている。彼は優しげな視線を未来へと注ぎ、そっと一言、「ごめん」とだけ呟いた。
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