第6章 混沌 -  母親(2)

文字数 1,662文字

                  母親(2)


「くそっ……」
 無論、それは未来の母、優子に向けての声ではない。
 瞬の想像が事実だと知って、思わず吐き出したジレンマだった。
 優子が辛そうに声を震わせ、未来の名を呟いたのだ。視線は写真にだけ向けられ、写真の中の未来はまだ高校生。今や完全に目の慣れた瞬にはすべてが見えて、優子の震える唇や頬を伝う涙に、いよいよ目を向けていられなくなった。
「かあさん、僕はいったい……どうしたらいいんだよ……」
 娘を念い苦しんでいる母親の姿に、彼は思わず己の母へとそう問うた。
 その時、そんな瞬の声に反応したかのように、薄暗い空間から白っぽい何かが現れた。
 優子と瞬の間ちょうど真ん中辺りに、それはフッと現れて浮かんだまま動かない。そしてついさっきと同様に、ピンポン球程度だったそれは、見る見るその面積を広げていった。やがて瞬の周りを別世界が取り囲み、いつしか彼は未来の部屋からも消え去った。
 当然、優子はそんなことを知る由もない。瞬がそこにいたなど知りもせず、彼女はその後も未来の部屋に居続ける。そして愛する娘の行く末を案じ、ここまであった様々な出来事を思い返していくのだった。
 そもそも瞬を見つけ出すキッカケを作ったのは、他でもない優子自身。
 全国の病院に電話するというアイデアも、当初は慎二でさえ取り合おうとはしなかった。そして島根県から掛け始めたのも、優子の一言があったからだ。
 ――もし、わたしがそうしていなかったら……?
 きっと今頃、未来には子供の1人や2人はいただろう。勿論その結婚相手とは、あんな男なんかじゃ決してじゃない。医者じゃなくたって全然いいのだ。ちゃんと働いて家族を大事にしてくれるのであれば、どんな男性であろうと構わない。瞬の覚醒だけを待ち続ける娘に、優子は強くそう思うようになっていた。
 実は今から10年と少しだけ前のこと、そんな願いが叶うかもしれないと、優子は心の底から思ったことがある。
 他の男性と結婚するかもしれない。
 近いうちにそんな将来がやって来ると、真剣に信じたことがあったのだった。
 
 未来は就職して4年目の春、急に一人暮らしを始めると言い出した。
 その頃には瞬のことを滅多に話さなくなっていて、このままいけば忘れてくれる……と、優子は心密かに喜んでいた。
 ところがその引っ越しを境にして、再び以前の未来に戻ってしまった。
 滅多に実家には近寄らず、休みの日に尋ねてみればマンションはもぬけの殻。
 後から聞けば、だいたいは瞬の病室に行っていると言うのだ。そんな決まりきった答えを聞けば聞く程、優子の心は深く沈んだ。
 だからと言って止めろとも言い出せず、そんな状態のまま数年が過ぎ去る。そして未来がとうとう30歳を迎えるという年、それはあまりに突然のことだった。
 あれ? 未来じゃない! そう思って声を掛けようとした時、未来の傍に駆け寄る人物に気が付いた。背の高いスーツ姿の男性で、十数メートルの距離からでも、なかなかのイケメンだということが知れる。その場で足を止め、暫しその行く末を見守ったのだ。
「明日お休みでしょ? お昼頃行くから、たまには一緒にランチでもしましょうよ」
 そんなシーンを目にする前日、優子が電話口でそう言うと、未来は出掛けるからと答えてさっさと電話を切ってしまった。
 どうせ合鍵は貰っているのだ。だからいなければいないで部屋でも掃除して、夕飯を作っておいてあげよう。優子がそう思って未来のところに向かっていると、マンション入り口に立つ未来の姿が遠くに見えた。そして声を掛ける間もなく、未来は近寄ってきた男性と建物の中に入って消える。
 ――セールスマンかしら? 
 しかしそれなら、わざわざマンション前で待ったりするか? 更に言うなら、
 ――仕事関係やセールス相手に、未来があんな笑顔を見せるかしら?
 それに2人一緒に入ったとなれば、きっとあの男性を部屋の中にも上げるのだろう。優子はそんなことばかりを考えながら、暫くその場所に立ち尽くした。
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