第7章 真実 - 1985年

文字数 2,193文字

 1985年 


「どうだ? 結構な眺めだろう? しかしだ、こんなところに俺を連れ出して、いったい何をしようって言うんだ?」 
 そう言って笑ってはみるが、どうにも顔が引き攣って様にならない。
 京はついさっきまで、屋敷で開催されていたパーティー会場にいた。教団の一員となった大物政治家の御機嫌取りに、それは大層金の掛かったもの。県内外の有力者が一堂に会し、いよいよ政治さえ動かしかねない――そんなことを思わせる雰囲気の中、豊子はそんな連中一人一人に京を紹介して回っていた。そして宴もたけなわの頃、突如京の婚約者だという女が現れる。一見大人しそうに見えるその女は、本日入信したばかりの大物政治家の孫娘ということだった。
「あっちだってこっちの何百万っていう数字が欲しいんだし、こっちだってあちらさんのお力添えで、これまで以上に政財界に食い込める。まあとにかく、適当にうまくやっておくれよ……」
 京の耳元でコソッとそんなことを言って、豊子は大口を開けて大笑いを見せた。
 一方京はそんなことを聞かされておらず、それでも、見たところそう悪い女でもなさそうだ……くらいの気持ちでいたのだ。しかしすぐにいつも通り、女の驚愕すべき本質を知ってしまう。27という年齢でどうしてここまで? などと思ってしまうような退廃が、まさに女の掌から伝わったのだ。その殆どは金と肉への欲望であり、同時に、そんな欲と共にあった人生の記憶が、すべて根っからのものであると訴えかけてくる。更にそれだけじゃなかった。外面からは想像もできない凄まじいまでの悪意が、女の手が離れてからも京の身体中を駆け巡った。
 ――こんなやつと、一緒に暮らせる筈がない!
 若い頃と違って、多少のことなら動じない自信はあった。しかし目の前で微笑んでいる女は、京の想像を遥かに越えて醜悪過ぎる。そんなものともし万が一、始終触れ合うことになったなら、
 ――近いうちに俺はきっと、こいつを殺してしまうだろう……。
 だから結婚などしたくない。こう告げたところで、豊子はきっと言ってくるのだ。
「何馬鹿なこと言ってるんだい? そのくらいの方が、却って楽しいじゃないか?」
 このくらい言って返して、後は何もなかったように事を進めていくだろう。そうして、京は来賓のどうでもいい挨拶の中、迷う事なくパーティー会場を抜け出した。もう二度と戻ってくることはない。そう心に念じながら、呼び付けたハイヤーを門の前で1人待ったのだ。そして待つこと10分くらいが経った頃、
「すみません、二階堂京さんですよね……」
 突然そんな声が聞こえてきた。見れば彼のすぐ傍に、知らぬ間に若い男が立っている。京の名を知るその若者は、更に自分を菊地瞬だと名乗ってぎこちない笑顔を見せた。彼は夏を感じさせる日差しの中、クルマに乗らずここまで歩いてきたのだろう。上気した顔に汗が滴り、まるで茹で上げた蛸のように顔が真っ赤だった。
 誰だ? こいつ……。そう感じたのを、きっと若者もすぐに察知したのだ。いきなりポケットから何かを取り出し、控えめに、それでも京の目を見据えながら差し出してきた。それはかなり古びた白黒写真で、京が視線を向けるのとほぼ同時に、「母は今月、病気で亡くなりました……」なんてことを言ってくる。そこに写っていたのは、紛れもなく京の知っている女だった。更に目の前の男はきっと、写真の女のことを己の母だと言ったのだ。そんな認知に続いて、彼はすべてを無視してしまおうと心に決めた。だから若者からもさっさと背を向け、
 ――やっぱり、こんなところ戻ってくるんじゃなかった!
 強烈なる腹立たしさを感じながら、京はアスファルトの一本道を歩き出した。ところがたった数歩のところで、突然片腕を掴まれ立ち止まる。
「お願いです! 話を聞いてください!」
 そんな必死の声と一緒に、思いもしなかった光景が視界に飛び込んできた。
 そこに、赤ん坊を背負った康江がいたのだ。ピューピューと吹く風の音に混じって、赤ん坊の弱々しい泣き声までが聞こえている。康江は京の知っている男を見つめていて、その男の顔は夕陽に照らされ、まるで燃えているように真っ赤に見えた。
 ――淳一……。
 先日目にしたよりずっと若い、それは京がよく知っている淳一の顔だ。若者から流れ込んできたのは、紛れもなくあの日の日御碕であろう風景だった。 
 ――どうして、おまえがこんなことを知っている?
 赤ん坊だったこいつが、日御碕でのことを記憶している筈がない。だとすれば……、
 ――こいつも、おんなじなのか? 
 豊子や京ほど強いものかは分からない。ただ少なくとも、この若者は知り得る筈のない光景を記憶していた。どう詳しく説明されようが、風景そのものを思い描くことなど不可能だ。
 ――どうしてくれよう? 
 そう思ったちょうどその時、待ちに待った黒塗りのハイヤーが目の前で停まった。京は若者の手を乱暴に振り解いて、さっさとハイヤーに乗り込んでしまうのだ。しかしそれからすぐ、後部座席から顔だけを覗かせる。
「乗れよ……おまえさんの行きたいところに、この俺を連れてってくれ……」
 立ち尽くし動かない若者に向け、京はそう言って彼の入り込むスペースを空けた。
 そうして若者は車中の人となり、タクシーはその後40分程掛かって、彼の〝行きたいところ〟に向かって走っていった。
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