第6章 混沌 -  更なる過去(2)

文字数 1,687文字

 更なる過去(2)


「もうね、使用人たちも彼女のことを怖がっちゃってね、今や誰も自分から進んで近付こうとはしませんわ。あなたが言うように、普段はいいんですよ、何ら普通と変わらない。いや、あの年齢でああなら逆に、大したもんだって言うべきなんでしょうな。ところがね、フッとおかしくなるんですよ。急に何かが乗り移ったみたいになって、そう、もしかしたら本当に、悪魔か何かに取り憑かれているんじゃないかって、そう思いたくなるくらい変わっちまう。とにかく、あの方と一緒にここに住む気なら、せいぜいお気を付けになるんですな……」
 そんなことを京へと告げて、彼は命が惜しいからと、ここ数日で出て行くつもりだと更に言った。認知症だという見立ては、ある意味きっと正しいのだ。ただ豊子の場合は、膨大な他人の記憶を抱え込んで生きてきた。そんなことでもしかすると、一般的な症状とは違っているのかもしれない。その後すぐ、京が何人かの使用人に尋ね聞いた結果、明らかに普通じゃない時があるらしい。まるで別人のような話口調になったかと思えば、いきなり小さな子供のように泣き叫んだりする。しかし本人はそんな奇行をまるで覚えてはおらず、下手なことを口にすれば烈火の如く怒り出すらしい。
 ――だからあいつは、力を使ってみせたのか?
 以前の豊子なら、それは絶対にしないことだった。しかし普通じゃないなら、認知の症状が現れている時になら、そんなことだってあるのかもしれない。京はそこで初めて、あの医者が言っていたことすべてが、本当にあったことなのだろうと悟った。医者は、診察時に豊子の身体にどうしたって触れる。そんな時にもしあの力を解放させたら……幾ら医者の代わりがいたって足りはしないだろう。そして少しずつ、使用人や教団関係者からも恐れられ、一方豊子は、そんな病気に罹っていることなど気付きもしない。
 ――やっぱり、手紙を書いて寄越したのはあいつじゃない!
 病気を知ったんならまだしも、知らないであんな手紙を寄越す筈がないのだ。きっとあの手紙は、豊子に手を焼いている誰かが勝手に書いたか、或いは本当に呼び戻すよう指示されてのことか、どっちにしろ、あの低姿勢は豊子の本意じゃない。そう確信し、京はすぐさま屋敷の最上階へと向かうのだ。
 豊子しか使用を許されていないエレベーターに乗って、地下にある使用人部屋から一気に四階まで上がる。長い廊下を足早に歩き、やっと豊子の部屋の前に立った時だ。えっ!? と思って、襖の引き手に添えた指が凍り付く。突然、耳を劈くような叫び声が聞こえて、食器が床に飛び散る音が後に続いた。襖を開けて中に入ると、若い女性の使用人が大股を広げ尻餅をついている。味噌汁でもかぶったのか、刻まれたワカメやら豆腐の欠片が身体中にこびり付き、その周りには粉々になった食器や料理が散らばっていた。京が声を掛けようと一歩踏み出すと、使用人は「ヒッ!」と小さく声を出し、そのまま気を失い突っ伏してしまう。一方豊子は京の存在に気付いた様子もなく、気を失った使用人のすぐ傍で、ソファに座ったままニヤニヤしているのだ。
 そんなシーンを、これまで何度目にしたか知れなかった。彼自身、小学校に上がる頃には〝力〟に気付いて、気に入らないことがあれば思う存分使いまくった。ただそれは、人生の十分の一も生きたかどうかという子供のことで、苦悩するような辛い記憶などそうそうない。そのせいで気を失うようなこともなかったし、極たまに不思議な力を騒ぎ立てるものがいても、教師や父兄たちに信じるものはいなかった。ただそんな行動も、彼の成長と共にあっという間に収まっていく。
「ちょっとやそっとのことで使うんじゃないよ! ここぞという使いどころを考えるんだ。いいかい、なんでもそうなんだよ、程々が一番……力に頼り過ぎたり、多くを喋りすぎるなんざ、頭の悪い奴らのすることなんだよ、わかったね!」
 そんなことを豊子からさんざん言われ、彼も少しずつその意味を理解していったのだ。そうして、できるだけ同級生との接触を避け、いつも1人で行動するようになる。
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