第6章 混沌 -  松江から(2)

文字数 1,485文字

                 松江から(2)


「相澤未来さん! 止まりなさい!」
 長身の警察官の声によって、未来の足が電池切れのようにバタバタと止まった。
「大丈夫だから、安心してください……」
 続いての言葉は一気に優しい響きとなって、未来はその驚きに振り返ることさえできないのだ。彼は紛れもなく警察官で、何がどうなって自分の名前が知れたのか? 結果その後ろを歩きながら、未来はそんなことばかりを考える。鞄はずっと救護室にあって、名前の分かるようなことは一切口にしていない。ただとにかく、このままパトカーに乗ってしまえば、その後は一番恐れていた事態に突き進んでしまうだろう。
 きっと、本人がどう言っているかなんて思いっきり無視して、
「娘さんが松江駅のホームで、列車に飛び込もうとなさいまして……」
 みたいなことを、きっと彼女の母親は耳にすることになるのだ。
 ――そんなの困る! 絶対に困る!
 ならばどうしたらいいのか? さすがに警察官から逃げ出すのも憚れたし、名前が知られているとなれば、逃げ出すのは却って逆効果になるかもしれない。いっそのこと……、恋人が線路の真上で消えちゃったから――なんて言ってしまおうかと思い始めた頃、バスやタクシーに交ざって、パトカーが一台停まっているのが目に留まった。ロータリーで一際目立っているパトカーの中にも、別の警察官の姿がしっかり見える。もう完全に万事休す。未来がそう思ってうな垂れていると、前を行く警察官が唐突に振り返った。
「ちょっとここで待っていてください。いいですか未来さん、ここから動いてはいけませんよ。そんなことをしたら、あなたはきっと後悔する。分かりましたね?」
 刃向かう気力などない未来を見下ろし、彼はしつこいくらいに念を押した。
 もうどうせ逃げられっこない。既に観念していた彼女は黙って頷き、彼がパトカーに乗り込む姿をただ呆然と目で追った。どうせまたすぐに車を降りてきて、彼は未来に向かって言うのだろう。
「さあ、これに乗ってください」
 もしかしたら、ただ黙って右手を振り上げ、乗りなさい――なんて身振りをしてみせるのか? そんなことを思い描いて、未来はジッとその時を待った。ところがだ。いつまで経ってもさっきの警察官が降りてこない。彼は運転席に陣取るもう一方に、神妙な顔付きで何かを語りかけている。そして時折、運転席の方も首を180度廻して、未来の立っている姿に目を向けるのだ。そのうちに、パトカーのエンジン音が聞こえてきて、え、嘘? と思うまま車がゆっくりと走り出してしまった。
 ――どうして、なんで行っちゃうのよ……?
 逃げ出そうなんて思い付く以前に、その光景にただ驚き、何が起きているのかを必死になって考えた。パトカーが完全に見えなくなっても、金縛りにあったように暫くそこから動けない。そしてそんな未来の傍を、ちょうど大学生くらいの若者2人が通り掛った。そこそこに大きいボストンバッグを手に持って、楽しそうにお喋りしながらタクシー乗り場へ歩いていく。先ずはホテルにチェックインして、最初に松江城に行ってみよう。堀川を観光する遊覧船もあるらしいし、きっと情緒たっぷりね――みたいな会話を、未来はその時ふと想像してしまう。そして同時に、やっと思い出すのだ。瞬の身に起きていた現実が、そこでようやく脳裏にまざまざと蘇った。慌てて辺りを見回し、駅入り口に設置された公衆電話まで走った。百円玉を躊躇なく投入口に流し込み、迷うことなく病院の番号をプッシュする。そしてまさに呼び出し音がという瞬間、頭の中で突然声が響き渡った。
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