第1章 日常 - 髪の長い男
文字数 2,363文字
髪の長い男
「誠ちゃんが死んじゃう! 誠ちゃん行っちゃダメだよ! 誠ちゃん! 」
何度も何度もそう叫び、幼き日の瞬が懸命に走っている。彼が追いかけているのは幼稚園のマイクロバスで、当然ながら、その距離はどんどん開いていった。それでも瞬は走り続けた。やがてバスが見えなくなって、そうなってやっと彼は走るのを止める。
きっと、もう二度と誠ちゃんと会うことはない。そう思うと、このままどこかに行ってしまいたいとまで思った。瞬は幼稚園服のポケットに両手を突っ込み、足元に転がっていた石ころを軽く蹴った。角が取れて丸くなった小石は、思いの外遠くまで転がっていく。瞬はその一瞬だけ、悲しみが少し軽くなったように感じた。ところが次の瞬間、石の転がる先に目を向けて、その驚きに思わず息が止まりそうになる。
そこに、誠ちゃんがいたのだ。さっきまでバスに乗っていた筈の彼が、アスファルトの上に直立不動で立っている。
「誠ちゃん! 途中でバスを降りたんだね!」
瞬は嬉しそうにそう言って、小池誠一くんのところに走り寄った。
「誠ちゃん、良かったね!」
誠一くんを目の前にして、彼は心から嬉しそうにそう声にする。もしかしたら、乗り込んだのは他のお友達で、それを誠一くんと間違えたのかも知れない。だからこれでもう大丈夫だ。そんな安堵感に包まれて、瞬は目一杯の笑顔を誠一くんに向けていた。しかし当の本人には笑顔などなく、逆に今にも泣き出しそうな顔付きだ。
「どうしたの?」
誠一くんの様子に気が付き、瞬は不安そうな声を上げる。更によく見てみれば、いつも下げている幼稚園バックが見当たらず、運動靴どころか、彼は靴下もはかずに素足のままで立っている。どうして? 瞬が再びそう思った瞬間だ。まるで彼の思念が伝わったかように、誠一くんまでが言ってくる。
「瞬くん、どうしてなの?」
それは、瞬の知っている声ではなかった。
「瞬くん、僕は死んじゃったの? どうして、ちゃんと助けてくれなかったの!?」
女の子のような甲高い声で、歪んだ顔の誠一くんがそう言った。
――死んじゃった……? どうして? なんでそんなこと言うの?
「誠ちゃん!」
――どうしたの?
心にあった次の言葉は、声にはならず儚く消え去る。
その時、誠一くんの顔が急に赤黒くなって、フッと歪んで見えたのだった。
「誠ちゃん、どうしたの? 誠ちゃん! 誠ちゃん!」
瞬は声を限りに叫ぶのだが、彼の顔はおかまいなしに歪んでいって、まるで飴細工のようにその姿を変えていく。やがてその姿は、見事、誠一くんのものではなくなって……、
――誠ちゃん!
きっと、本当に声になっていた。叫び声を感じて、俺は思わず跳ね起きたんだ。
そこは、紛れもなく自宅の寝室。俺は服を着たままベッドに寝転んで、暫くあの少女のことを考えていた。ところが知らぬ間に眠りに落ちて、これまた懐かしい夢を見ていたらしい。これは実際に経験したことで、これまで何度も見た夢だった。ただ最後はいつもとぜんぜん違って、まるで意味不明の展開となる。小池誠一がなぜか女の子になっていて、更にその顔が一向に思い出せなかった。それでもきっとあの子なんだろう。そう思って、俺が起き上がろうとした時だった。いきなり、どこからともなくサックスの音色が響き渡った。そこでようやく俺は、CDをかけっぱなしだったことに気が付く。きっと最後の曲が終わって、リバース機能が働き1曲目に戻ったんだ。実のところ、俺は最近ジャズばっかり聞いている。特にベッドに寝転がって考え事をする時なんかに、これ以上の音楽はないとさえ思うんだ。例えそのまま寝てしまったとしても、テナーサックスの音色が夜明けを知らせてくれる、なんて最高だろう? ただとにかく、残念ながら目を覚ましてしまった。だからCDを止めに行こうと、俺はベッドから足を投げ出そうとした。
――くそっ、またか……?
その時、間接照明からのオレンジ色の光が、一瞬微かに揺らめいた気がした。置き時計に目をやると、午前2時をちょっと過ぎた頃だ。再び、俺はオレンジ色の光にじっと目を凝らす。すると確かに、何かがすうっと光の中心を通り過ぎた。
「またかよ……」
俺は少しだけ忌々しそうに呟いて、天井にある蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。
案の定、それはいつものあいつだった。蛍光灯が白い光を放った途端、その姿が薄らと浮かび上がる。顔や身体の盛り上がったところが、光に反射して白っぽく見えた。ただそれ以外、殆どの部分は透明のままだから、じっとしているとその姿はかなりヘンテコだ。ところがちょっとでも動こうものなら、動いたところだけが薄らと光り始める。時には手の甲の血管までが浮き上がって、まさに人間らしい姿を見せつける時だってあった。
初めて目にしたのは、1年前だったか2年前だったのか、部屋の中にまで現れた! って感じで、最初はこの先どうなることかと心配にもなった。背丈が結構あって、長い髪を後ろで束ねている。でも決して、若い男って感じじゃない。とにかく我が物顔で動き回るそいつは、大体いつもこの時間、午前2時頃に現れた。それから俺のことなんか無視しっぱなしで、明け方頃には勝手に消え去ってしまう。もしかすると、こいつは以前この部屋に住んでいたのかも知れない。死んだことにまるで気付かず、未だここで生活してるつもりでいるのか? だとするなら……、
――いつか俺の前に、色付きで現れるのかもな……?
そうなったら長い付き合いに免じて、せいぜい丁寧に見送ってやろう! 俺は空間に浮かぶ光の揺らぎを見つめながら、そう思ってやっと心穏やかになれていた。
「誠ちゃんが死んじゃう! 誠ちゃん行っちゃダメだよ! 誠ちゃん! 」
何度も何度もそう叫び、幼き日の瞬が懸命に走っている。彼が追いかけているのは幼稚園のマイクロバスで、当然ながら、その距離はどんどん開いていった。それでも瞬は走り続けた。やがてバスが見えなくなって、そうなってやっと彼は走るのを止める。
きっと、もう二度と誠ちゃんと会うことはない。そう思うと、このままどこかに行ってしまいたいとまで思った。瞬は幼稚園服のポケットに両手を突っ込み、足元に転がっていた石ころを軽く蹴った。角が取れて丸くなった小石は、思いの外遠くまで転がっていく。瞬はその一瞬だけ、悲しみが少し軽くなったように感じた。ところが次の瞬間、石の転がる先に目を向けて、その驚きに思わず息が止まりそうになる。
そこに、誠ちゃんがいたのだ。さっきまでバスに乗っていた筈の彼が、アスファルトの上に直立不動で立っている。
「誠ちゃん! 途中でバスを降りたんだね!」
瞬は嬉しそうにそう言って、小池誠一くんのところに走り寄った。
「誠ちゃん、良かったね!」
誠一くんを目の前にして、彼は心から嬉しそうにそう声にする。もしかしたら、乗り込んだのは他のお友達で、それを誠一くんと間違えたのかも知れない。だからこれでもう大丈夫だ。そんな安堵感に包まれて、瞬は目一杯の笑顔を誠一くんに向けていた。しかし当の本人には笑顔などなく、逆に今にも泣き出しそうな顔付きだ。
「どうしたの?」
誠一くんの様子に気が付き、瞬は不安そうな声を上げる。更によく見てみれば、いつも下げている幼稚園バックが見当たらず、運動靴どころか、彼は靴下もはかずに素足のままで立っている。どうして? 瞬が再びそう思った瞬間だ。まるで彼の思念が伝わったかように、誠一くんまでが言ってくる。
「瞬くん、どうしてなの?」
それは、瞬の知っている声ではなかった。
「瞬くん、僕は死んじゃったの? どうして、ちゃんと助けてくれなかったの!?」
女の子のような甲高い声で、歪んだ顔の誠一くんがそう言った。
――死んじゃった……? どうして? なんでそんなこと言うの?
「誠ちゃん!」
――どうしたの?
心にあった次の言葉は、声にはならず儚く消え去る。
その時、誠一くんの顔が急に赤黒くなって、フッと歪んで見えたのだった。
「誠ちゃん、どうしたの? 誠ちゃん! 誠ちゃん!」
瞬は声を限りに叫ぶのだが、彼の顔はおかまいなしに歪んでいって、まるで飴細工のようにその姿を変えていく。やがてその姿は、見事、誠一くんのものではなくなって……、
――誠ちゃん!
きっと、本当に声になっていた。叫び声を感じて、俺は思わず跳ね起きたんだ。
そこは、紛れもなく自宅の寝室。俺は服を着たままベッドに寝転んで、暫くあの少女のことを考えていた。ところが知らぬ間に眠りに落ちて、これまた懐かしい夢を見ていたらしい。これは実際に経験したことで、これまで何度も見た夢だった。ただ最後はいつもとぜんぜん違って、まるで意味不明の展開となる。小池誠一がなぜか女の子になっていて、更にその顔が一向に思い出せなかった。それでもきっとあの子なんだろう。そう思って、俺が起き上がろうとした時だった。いきなり、どこからともなくサックスの音色が響き渡った。そこでようやく俺は、CDをかけっぱなしだったことに気が付く。きっと最後の曲が終わって、リバース機能が働き1曲目に戻ったんだ。実のところ、俺は最近ジャズばっかり聞いている。特にベッドに寝転がって考え事をする時なんかに、これ以上の音楽はないとさえ思うんだ。例えそのまま寝てしまったとしても、テナーサックスの音色が夜明けを知らせてくれる、なんて最高だろう? ただとにかく、残念ながら目を覚ましてしまった。だからCDを止めに行こうと、俺はベッドから足を投げ出そうとした。
――くそっ、またか……?
その時、間接照明からのオレンジ色の光が、一瞬微かに揺らめいた気がした。置き時計に目をやると、午前2時をちょっと過ぎた頃だ。再び、俺はオレンジ色の光にじっと目を凝らす。すると確かに、何かがすうっと光の中心を通り過ぎた。
「またかよ……」
俺は少しだけ忌々しそうに呟いて、天井にある蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。
案の定、それはいつものあいつだった。蛍光灯が白い光を放った途端、その姿が薄らと浮かび上がる。顔や身体の盛り上がったところが、光に反射して白っぽく見えた。ただそれ以外、殆どの部分は透明のままだから、じっとしているとその姿はかなりヘンテコだ。ところがちょっとでも動こうものなら、動いたところだけが薄らと光り始める。時には手の甲の血管までが浮き上がって、まさに人間らしい姿を見せつける時だってあった。
初めて目にしたのは、1年前だったか2年前だったのか、部屋の中にまで現れた! って感じで、最初はこの先どうなることかと心配にもなった。背丈が結構あって、長い髪を後ろで束ねている。でも決して、若い男って感じじゃない。とにかく我が物顔で動き回るそいつは、大体いつもこの時間、午前2時頃に現れた。それから俺のことなんか無視しっぱなしで、明け方頃には勝手に消え去ってしまう。もしかすると、こいつは以前この部屋に住んでいたのかも知れない。死んだことにまるで気付かず、未だここで生活してるつもりでいるのか? だとするなら……、
――いつか俺の前に、色付きで現れるのかもな……?
そうなったら長い付き合いに免じて、せいぜい丁寧に見送ってやろう! 俺は空間に浮かぶ光の揺らぎを見つめながら、そう思ってやっと心穏やかになれていた。