第5章 現実 – 黒い影(2)
文字数 1,375文字
黒い影(2)
死の瀬戸際に、夫婦2人して立っている。
そんな更なる事実を知って、すぐにでもそこから逃げ出したくなった。だからカーテンの先に老婆が消えるのを見届けて、さっさと病室から背を向ける。と
ころが何歩か歩いたところで、
「どうぞお入りください」
いきなり、静かだがそれなりに力のこもった声。
慌てて振り返ると、病室から半身を覗かせた看護師が見えた。
自分に言っている? そう感じた瞬間、
――僕は、おばあちゃんを連れてきただけですから……。
そんな台詞が浮かび上がった。
きっとカーテンが捲られた時、一緒にいる彼の姿が見えたのだ。だからそれだけを伝えて、再びさっさと歩き出せばいい。
ところがそう言葉にする前に、看護師の姿は病室の中に消え去ってしまう。
看護師など無視して、このまま踵を返し歩き出すか?
そんな可能性を一時だけ考えた。ただ実際、そんなことができるくらいなら、そもそもこんな病院になんぞに来ていない。
どうぞお入りください――こんな声はきっと、最期まで僕に、ちゃんと見届けろということなんだ……。瞬はそう念じながら、内田定夫さんという顔も知らない老人の病室へ入っていった。入ってすぐ左に洗面台があり、正面には白いカーテンでその奥が見えないようになっている。恐る恐るカーテンを開くと、さっきの看護師が正面に立っていて、振り向き様に〝奥へどうぞ〟という素振りを見せた。
そこは見事なまでに殺風景な部屋で、花を生けた花瓶どころか、小型テレビや簡易棚さえ置かれていない。
奥の窓際にベッドが一つ。その上に横たわる老人の身体から、様々な太さの管やコードなどが各所へと伸びていた。その内の多くが1つの医療機器に繋がれ、そこから小さな電子音が定期的に響いている。
老婆の夫は既に、いつ臨終を迎えてもおかしくない〝危篤〟という状態だった。
部屋には看護師の他に中年の医師もいて、やることはすべてやったということだろう……眠っているようにも見える患者に、身動きすることなくただジッと目を向けている。
そんな視線の邪魔にならないように、瞬はカーテンを越えて病室の隅っこに陣取った。そうして初めて、彼はさっきの老婆の様子に目を向けたのだ。
相変わらず黒いままの老婆は、ベッド脇の丸椅子に腰掛け、夫であろう患者の枕元に顔を寄せている。その顔に悲しみの印象はなく、涙が滲んでいるわけでもなかった。むしろ無表情といった顔付きで、両方の掌で夫の痩せた左手を包み込んでいた。
ふと、2人に子供はいないのか? などと思った。
だがいるんであれば、もうとうにここに現れているだろう。
そしてよくよく見れば、老婆の服装は決して裕福そうには見えなかった。半袖でもいいくらいの陽気なのに、シャツの上に毛玉だらけのカーディガンを羽織っている。手にしていた巾着袋が膝の上にあって、長年使い続けているらしく、縫い目の至るところが今にも破けてしまいそうに見えた。
もしかすると、2人は仲のいい夫婦ではなかったのかもしれない。
瞬は老婆を見つめているうちに、意味もなくそんなことを感じた。
無論両親の親たち以上に老齢であろう2人に、これまでどんな人生があったのかは分からない。しかし瞬にはなぜか、それが幸せなものであったとは思えないのだった。
死の瀬戸際に、夫婦2人して立っている。
そんな更なる事実を知って、すぐにでもそこから逃げ出したくなった。だからカーテンの先に老婆が消えるのを見届けて、さっさと病室から背を向ける。と
ころが何歩か歩いたところで、
「どうぞお入りください」
いきなり、静かだがそれなりに力のこもった声。
慌てて振り返ると、病室から半身を覗かせた看護師が見えた。
自分に言っている? そう感じた瞬間、
――僕は、おばあちゃんを連れてきただけですから……。
そんな台詞が浮かび上がった。
きっとカーテンが捲られた時、一緒にいる彼の姿が見えたのだ。だからそれだけを伝えて、再びさっさと歩き出せばいい。
ところがそう言葉にする前に、看護師の姿は病室の中に消え去ってしまう。
看護師など無視して、このまま踵を返し歩き出すか?
そんな可能性を一時だけ考えた。ただ実際、そんなことができるくらいなら、そもそもこんな病院になんぞに来ていない。
どうぞお入りください――こんな声はきっと、最期まで僕に、ちゃんと見届けろということなんだ……。瞬はそう念じながら、内田定夫さんという顔も知らない老人の病室へ入っていった。入ってすぐ左に洗面台があり、正面には白いカーテンでその奥が見えないようになっている。恐る恐るカーテンを開くと、さっきの看護師が正面に立っていて、振り向き様に〝奥へどうぞ〟という素振りを見せた。
そこは見事なまでに殺風景な部屋で、花を生けた花瓶どころか、小型テレビや簡易棚さえ置かれていない。
奥の窓際にベッドが一つ。その上に横たわる老人の身体から、様々な太さの管やコードなどが各所へと伸びていた。その内の多くが1つの医療機器に繋がれ、そこから小さな電子音が定期的に響いている。
老婆の夫は既に、いつ臨終を迎えてもおかしくない〝危篤〟という状態だった。
部屋には看護師の他に中年の医師もいて、やることはすべてやったということだろう……眠っているようにも見える患者に、身動きすることなくただジッと目を向けている。
そんな視線の邪魔にならないように、瞬はカーテンを越えて病室の隅っこに陣取った。そうして初めて、彼はさっきの老婆の様子に目を向けたのだ。
相変わらず黒いままの老婆は、ベッド脇の丸椅子に腰掛け、夫であろう患者の枕元に顔を寄せている。その顔に悲しみの印象はなく、涙が滲んでいるわけでもなかった。むしろ無表情といった顔付きで、両方の掌で夫の痩せた左手を包み込んでいた。
ふと、2人に子供はいないのか? などと思った。
だがいるんであれば、もうとうにここに現れているだろう。
そしてよくよく見れば、老婆の服装は決して裕福そうには見えなかった。半袖でもいいくらいの陽気なのに、シャツの上に毛玉だらけのカーディガンを羽織っている。手にしていた巾着袋が膝の上にあって、長年使い続けているらしく、縫い目の至るところが今にも破けてしまいそうに見えた。
もしかすると、2人は仲のいい夫婦ではなかったのかもしれない。
瞬は老婆を見つめているうちに、意味もなくそんなことを感じた。
無論両親の親たち以上に老齢であろう2人に、これまでどんな人生があったのかは分からない。しかし瞬にはなぜか、それが幸せなものであったとは思えないのだった。