第8章 終焉 -  病院へ(3)

文字数 1,704文字

 病院へ(3)
 


 危篤とは、病状がとことんまで悪化し、いつ亡くなってもおかしくない状態――のことを言うのだろう。だとするなら、危篤だと告げられ、更にその後、「今のところは安定している……」と続いた場合は、いったいどういう状態だと思えばいいのか? 未来は帰りの飛行機の中で、ずっとそんなことばかりを考え続けた。
 喫茶店での着信は父慎二からで、瞬が危篤状態だという最悪の連絡だった。そして彼は電話の最後に、安定はしているんだと付け加えるように言ったのだ。未来はその時、すぐに行動しようという気にどうしてもなれない。だから携帯を畳んで店内に戻り、ナポリタンが出てくるのをただ待った。そうして運ばれてきたのは、昔懐かしい正真正銘のナポリタンだ。ちょっと振り掛けたくらいじゃないケチャップが、パスタを真っ赤に染め上げいい匂いを放っている。少しだけフォークに巻き付け口に運ぶと、甘酸っぱい味と香りが口一杯に広がった。次々と口に運んで、すぐに口の中は一杯になる。いつしかパスタを頬張る未来の頬を、涙が筋を作って流れ落ちた。気付けばテレビは既に消されて、未来のすすり泣く声だけが店内に悲しく響いている。するとすぐに、クラシックの旋律が流れ始めるのだ。きっとあの老人が気を利かせたのだろう。やはり少し大き過ぎるくらいの音色が、未来の声を消し去るようにしっかり響いていたのだった。
 それから、未来は10分程して喫茶店を後にする。会計を済ませ、心の中で感謝の言葉を唱えながら、彼女はマスターへと深々と頭を下げた。駅前からタクシーに乗り込み、午後2時には羽田空港に到着。きっとすぐに行動することなく、ナポリタンを詰め込んでおいたのが良かったのだろう。喫茶店を出てからは然程動揺することなく、比較的冷静のまま瞬の病院へ向かうことができる。ところがだった。病院の敷地内に足を踏み入れてすぐ、前を歩く女性の後ろ姿に未来はかなりの衝撃を受ける。
 ――どうして……あなたも病院に呼ばれたの?
 驚いて足を止める未来のかなり先に、明らかに江戸景子の後ろ姿があったのだ。彼女は昔から左足を引きずるようにして歩く。まさにそんな後ろ姿が、その後すぐに病院の中へ入って消えた。偶然か? しかし単なる見舞いなら、ここ数日で未来にもきっと連絡がある。それにいつもなら、必ず手にしている切り花だって見当たらない。
 ――じゃあ、いったいどうして……?
 そう思った途端、それまでの落ち着きが一瞬にして消え失せた。追い掛けよう! 未来はすぐにそう思って、景子が消えた病院入り口まで全速力で走った。前の人が通った自動ドアをすり抜けて、広々とした院内をぐるっと見渡す。しかし景子の姿は見当たらず、いつもと変わらぬ風景だけがただ目の前に広がった。
 とにかく、瞬の病室に行けば分かることなのだ。未来は再び歩き出し、目を閉じても辿り着けるだろう瞬の病室へ急いだ。道すがら想像していたのは、酸素やら点滴やらチューブだらけになっている瞬と、その周りで見守っている近しい人たちの姿だ。ところがそんな想像がまったくの誤りであることを、彼女はすぐに知ることになる。
「え……どういうこと?」 
 病室の扉を開けた途端、口から思わずそう声が出た。そこに、誰もいなかったのだ。瞬だけが変わらずベッドにいて、見ればしていた筈の酸素マスクさえ付けていない。
 ――まさか、遅かった!? 
 未来は慌てて瞬に駆け寄り、屈んで彼の顔を覗き込む。すると首もとまで掛けられたタオルケットが、微かに上下しているのにすぐ気が付いた。
 ――よかった!
 彼はちゃんと呼吸していて、胸に耳を寄せれば心臓の音だってしっかりと聞こえる。
 ――じゃあ、みんなはどこに行ったの?
 瞬の父親どころか、電話をしてきた慎二もいない。だいたい、さっき見掛けた景子はどこに消えたのか? そんな疑問が浮かび上がった後すぐ、瞬が無事だったという安堵感がふわっと全身を包み込んだ。続いて身体から一斉に力が抜けて、未来はストンとその場にしゃがみ込む。するとその時、耳元で何かが聞こえたのだ。フッと囁くように、誰かが未来の名を呼んだような気がした。
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