第6章 混沌 -  二階堂京(3)

文字数 1,693文字

                二階堂京(3)


 右手をまっすぐ近付け、ゆっくりと瞬の口元へ添えた。すると想像以上に冷たい感触が伝わって、その姿以上にまるで生きている感じがしない。こうする必要などあるのかと、微かな疑念が一瞬だけ涌き上がる。しかしそんな迷いもすぐに消え去り、
 ――今度会うときには、ちゃんとお化けになって出てこいよ。
 そう思い念じて、彼は少しだけその腕に力を込めた。更に右手の上に左手も添えて、瞬の口元を完全に塞ぎ切る。
 ――今度こそ、本当にさよならだ……。
 そう心で呟いて、指先を瞬の頬に食い込ませていった。するとその時、病室の外から微かな靴音が聞こえる。耳を澄ませば、その音は確実にこの病室へと近付いてくるようだ。
 ――早く行け、その方がおまえには幸せなんだ。
 瞬の閉じ切った目元を見つめて、彼はそう思うままに力を込めた。後10秒もしないうちに自発呼吸は消え去り、やがて心臓の鼓動も途切れていたに違いない。ところがそうなるちょっと前、サチレーションの急激な悪化同様、それはあまりに突然だった。
「何してるんですか!?」
 いきなり声が響いて、あっと思った時には床に叩き付けられる。床に着いた両膝から激痛が走り、彼は慌てて首だけを捻った。すると見上げたその先に、知った顔が現れ出る。そして同時に彼を見下ろすその顔には、驚きというより困惑しきった顔があった。
「どうして、あなたがここに……?」
 現れた男はそう呟いてから、ふと気付いたように慌ててベッド傍に近寄った。瞬の口元に顔を寄せ。弱々しくも繰り返される呼吸を確認。そうしてさも安堵したと言わんばかりに、フーッと大きく溜め息をついた。それからゆっくり息を吸い込み、躊躇いがちに振り返る。起き上がろうとしている知った顔へと、深く沈んだ声で男は告げた。
「あなたがいったい、ここで何をしている……?」
 ――瞬を殺そうとするなんて……。
 グッとその言葉を飲み込んで、そんな思いを顔付きにだけ込めた。
 彼の睨み付ける視線の先には、随分と歳を取った二階堂京の顔がある。それは彼にとって40年ぶりとなるものだったが、それが京であると彼はすぐに分かったのだ。白髪交りとはいえ髪型は昔のままで、体型もその時代から抜け出てきたように同じだった。
「さっき、息子さんの病室に誰か入って行きましたよ……いえ、女性じゃないです。遠目でしたけど、あれは確かに男性でしたよ……」
 見舞客? であればきっと未来さんだろう。そう思ってしたリアクションに、そうではないんだという答えが返った。
 彼はここ何年、病室に向かう前にナースセンターに立ち寄り、息子の状態を尋ねるのが常となっていた。そしていつもなら、簡単な挨拶程度で済む筈が、突然そんなことを告げられる。いったい誰が? 瞬の父、菊地淳一はそんな疑問を抱えながら、病室の扉を少しだけ開けソッと中を覗き込んだ。するとベッド脇に立つ男に続いて、その背中左側に瞬の口元を塞ぐ両手が見える。気付けば男を突き飛ばし、振り向いた顔を見て再び我が目を疑った。そして何とか絞り出した声に、京は黙ったまま何も答えやしないのだ。更に一度合わせた視線まで外し、今はただ何もない空間を睨み付けている。淳一は京のそんな姿に、再び静かに告げるのだった。
「看護師がやってくる前に、さっさとここから出て行ってくれ……」
 それは、決して威圧するような声ではなかった。しかしどこか有無を言わせぬ感じがあって、そんな一言から十数秒後、彼は病室の扉の前に立ち、
「俺は、あんたに礼を言うべきなんだろうな……」
 そんな一言を言ってすぐ、彼の後ろ姿は扉の向こうに消えたのだ。
 一方残された淳一は、すぐにナースコールのボタンを押した。そして慌てて駆け付けるだろう看護師に、どう説明しようかと必死になって考える。まさか本当のことを口にはできない。後10年もすれば知っている人間は殆どこの世にいなくなるのだ。勿論当の本人は生きてるだろうが、自ら告白などする筈もなかった。すべて墓場までもっていく――そう決心した40年前の決意を、淳一は再び心に強く思うのだった。
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