第3章  異次元の時   - 矢島愛菜

文字数 1,931文字

                  矢島愛菜


 5人ずつ向かい合ってもゆったりできるテーブルに、2人は互いの顔を遠くに見ながら端と端に座っていた。結婚して6年、矢島は55歳、妻愛菜も33歳になって、最近では2人が夕食を共にするのはかなり珍しいことだった。
 ところがここひと月、矢島が週に1、2度早く帰ってきたりする。そんな時は彼が夕食を済ませたのを見計らって、愛菜はダイニングへ姿を見せるようにしていた。
 ところが今日、うっかり顔を出すと知らぬ間に矢島がテーブルに座っている。
 食事に一切手をつけないで、ジッと何もない空間を見つめているのだ。
 彼は入り口に立ち尽くす愛菜に気付くと、何をそんなに驚いているんだと言い、
「さあ、食べようじゃないか、今夜はステーキだぞ、こりゃ旨そうだ!」
 そう続けてから分厚い肉をギリギリと切り始める。
 最近では、食事する矢島を見ているだけで、愛菜は吐き気にも似たムカつきを覚えた。己の健康を考えれば、好きなものばかりを食べていていい筈はない。これまでの好物ばかりの食事が、様々な病気を引き起こしたのだ。それなのにここのところ、また好きなものばかりを料理人に作らせるようになった。
 ――自分の健康管理もできないなんて、まるで動物じゃない!
 本能の赴くままに食事に食らいつく。そんな矢島の姿が、どうにもだらしなく低レベルに思えた。
 寝室だけは一緒だったが、愛菜はいつも夜中まで起きていて、矢島が寝入ってからベッドに入るようにしている。当然そうなるとイビキはうるさく、なかなか寝付けないことも多かった。それでも、愛菜は起きている矢島と過ごすより、いつでもそっちの方を選びたいと強く思った。
 ――早く食べ終わって、さっさとここから出て行ってよ!
 そう念じながら席に着き、部屋の隅に並ぶ使用人3人のうちの1人に、フランスの高級メーカー、クリュッグのヴィンテージシャンパンをボトル1本持って来させる。
 極薄のクリスタル製グラスに乱暴に注ぎ入れ、まるでビールのように喉奥へと流し込んだ。
 愛菜はそれから、並んだ色とりどりの料理には一切手をつけずに、矢島が出ていくのをただひたすらに待ったのだ。
 元々、惚れた腫れたで結婚したわけでは勿論ない。
 これだけの金持ちなら、多少のことなら我慢できる。そこそこ裕福だった実家とは比較にならない資産家で、性格の不一致だので別れることを考えれば、賭けてみるに充分値する相手に思えた。
 ――裸一貫、ここまで登り詰めた人なんだから……。
 きっと、欠点を打ち消すくらいのパワーの持ち主だ。そんなふうに思って、愛菜はよく知りもしない男との結婚を決断していた。
 そして思っていた通り矢島に、言い出せばきりないくらいたくさんの欠点が見つかる。
 それでも最初の頃の彼には、愛菜の不平不満を笑い飛ばすくらいの器量があった。
 ところが次々と病気が見つかり、追い討ちをかけるように事故や怪我が続いた。日に日に矢島から男らしさが消え失せ、まるで生まれたての姑のように小言を口にするようになる。
「こんなところに置きっぱなしにするな! つまずいたりしたら危ないじゃないか!?」
 そう言って矢島が指差す先に、買ってきたばかりのエルメスやヴィトンの手提げ袋が置いてあった。それだって、〝はいはいごめんなさい〟という顔だけをして、手提げが置かれている広い廊下の片隅に向かって、
 ――こんなところで、いったい誰がつまずいたりするのよ!  
 なんて心で毒づいていればよかったのだ。
 ところが更に車による大事故だ。愛菜が強請ったイタリア製スポーツカーの不具合で、運転していた矢島がかなりの重傷を負ってしまう。
 急にブレーキが利かなくなった。
 矢島は救急車の中でそう呟いており、そのせいか数日後、家にまで私服の刑事がやってくる。
 事故の前日、愛菜はその車で買い物に出かけていた。そんなこともあってか、
 ――これじゃあまるで、わたしがブレーキに細工したみたいじゃないのよ!
 そう大声を上げたいくらい、かなり根掘り葉掘り聞かれたのだった。
 きっとどこかの誰か――例えば、矢島が雇い入れた防犯係とか?――が、ここ数年続いている矢島の災難でも吹聴したのかもしれない。そして更に、退院してきた矢島の変わり様が凄まじかった。
 以前のように、細かなことで小言を言うことがなくなった代わりに、自信に満ち溢れる矢島英二も完全に消え去ったのだ。いつもビクビクして自信なさげで、結婚した頃の矢島とはまるで別人。何かといえば目を見開き、愛菜にビクついた顔を向けてくる。それでいて一切何も口にはせずに、イラつく愛菜の視線から目を逸らすのだ。
 ところが、この日の矢島はまるで違った。
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