第6章 混沌 -  松江から(3)

文字数 2,035文字

              松江から(3)


「未来! そこにいちゃダメだ! 一畑百貨店の方に走って! 早く!」
 それは紛れもなく瞬の声で、驚いて顔を上げるとその姿が遠くに見えた。パトカーが走り去った宍道湖方面から、なんと彼がこちらに向かって走ってくるのだ。
 ――え! どうしてそんなところにいるの? 一畑百貨店ってどこよ!?
 そんな疑問が浮かぶと同時に、瞬が無事だったという喜びが一気に涌き上がった。未来は彼に向かって手を振ろうとするが、すぐに更なる声が響き続く。
「未来! 早く走れって! 警察官が戻ってくるぞ! 早く! 早く!」
 ――走る? どうして? 警察官が何しに戻ってくるの?
 そんな疑問が伝わったかのように、瞬は即座に言ってくるのだ。
「未来を連れ戻しにくるぞ! ほら! もうあそこまで来ちゃってる!」
 未来のところまで後少しという時、瞬は走り来る一台のパトカーを発見する。未来もすぐにそのことに気が付いて、そこでようやく、おぼろげながら事の大凡を窺い知った。
 ――さっきのあれって、実は瞬だったの? 
 だから当然未来の名前も知っている。更にもう一方には適当な言葉で言い含め、未来をパトカーに乗せぬまま走り去ってくれたのだ。そしてきっと、瞬が抜け出た途端に一悶着が当然あって……、
 ――だから、慌てて戻ってきたってわけか……。
 そんなことを思いながら、駅と百貨店の間の道を必死になって走って逃げた。幸い、その後あの警察官と出会すこともなく、2人はタクシーで隣駅である東松江に向かう。そこから列車で安来まで行って、一本遅れではあったが特急やくもに乗り込むことができた。

「急に息ができなくなったんだ。頭がぼうっとしてきて、気が付いたらベンチになんかいなくてさ、僕は知らない間に自分の病室に行ってたんだ。それも最初は、きっと自分の身体に戻ったんだと思うよ。だって、急に何も見えなくなったし、息もね、口や鼻が塞がれてるみたいに全然できなかった。だけどまた頭がぼんやりしてきて、フッと抜け出れたんだ。気付いたら僕の姿が下の方に見えて、あの人が口の辺りを両手でしっかり押さえてた。きっと後もう少しで、僕は本当に死ぬところだったんだろうなあ……」
 そんな信じられない光景に加えて、瞬は更に驚きのシーンを目にすることになる。
「2人は絶対に知り合いだった。父さんは間違いなく、二階堂って人のことを知っていたし、理由はまったく分からないけど、彼は僕のことを本気で殺そうとした。ただ、それがなんでなのかまで父さんも分かっていないらしくて、とにかくその時、もの凄く驚いた顔をしていたよ……」
 あの場に淳一が現れなければ、眺めていた瞬はそのまま天へと上がっていったのか?
「つまり僕は、本当に死んでしまう前には一度、自分の身体に戻れるってことなんだろうな……それで死ぬ直前、それがどのくらいの段階でそうなるのか、その辺はよく分からないんだけどさ、とにかくまた、身体から魂だけが抜け出るっていうか……、ま、こんなのはあんまり、本当はあって欲しくない状況なんだけどね……」
 そう言って、瞬は力無さげに笑うのだった。 
 元々、こんなことを知ってしまう以前に、2人は淳一に会いに行こうと決めていた。二階堂京や日御碕のこともあったが、更にその時、「瞬のアルバムに、生まれた頃の写真がないのは絶対に変」などと、未来が突然言い出したのだ。
「だっておかしいでしょ? 生まれてから1年以上写真を撮らなかったなんて、一歳過ぎた頃からなら、瞬の写真すごく一杯あるんだから、これって絶対におかしいわよ……」
 だからきっと、瞬だって不思議に思った筈だと未来は続けた。
 確かに小学生くらいの頃、両親に聞いたことがあるような気がする。しかしその時、どんな答えが返ってきたのか? 瞬は本当のところぜんぜん覚えていなかった。
「例えばさ、写真機がなかったとかじゃないかな? 一歳の頃になって、やっと手に入れたとかさ」
「だったらね、普通は生まれる前に買っとくわよ。確かに昔は、カメラって高級品だったんでしょうけどね。だけど瞬のうちって、毎年写真館で家族写真撮ってるじゃない?」
 なのにどうして一歳過ぎるまで、乳飲み子の瞬と一緒に写真館に行かなかったのか? そんなことを尋ねてみようと思っていたところ、瞬の喪失、遂には二階堂京と淳一とのただならぬ関係を知ることになった。
「俺は、あんたに礼を言うべきなんだろうな……」
 更に彼はこんな言葉を言い残している。礼を言うべき関係とは? それは単に、殺人を犯さずに済んだということを指したのか? 瞬の話を聞けば聞く程、未来の頭の中は疑問だらけになっていった。その一方で、数ある疑問の片隅に、1つの仮説がおぼろげながら浮かんでいた。ところが未来はどうしても、そうであるとは思いたくない。
 ――ダメ、そんなことあるわけない!
 だからそんな思いを心に抱え、何も言葉にしないまま島根県を後にしたのだ。
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