第3章  異次元の時   -   矢島英二

文字数 1,753文字

矢島英二



「おい! 誰かいないのか!?」 
男が車椅子に腰かけ、何度もそんな大声を上げ続けている。
しかし屋敷中静まり返っていて、彼の大声だけが空しく響いた。
そこは、まさしく〝お屋敷〟と呼ぶに相応しい大邸宅だった。西洋風の味付けも散見されたが、基本日本建築の粋を極めた建築物だと言えるだろう。そんな屋敷の中、男は東南一番奥にあるだだっ広い寝室にいた。
 ここのところ急激に体重が増えて、特注サイズだった電動式車椅子があっという間に使えなくなった。だから新しい電動式が届くまで、彼の足は耐荷重160キロという自走式車椅子になっている。
 当然、両腕だけで自走するにはかなりの力が必要で、特に動き出しだけは彼1人ではどうしようもない。本当であれば、5人もいる使用人の誰かが、すぐに部屋に走り込んで来てもいい筈だった。実際怒鳴り声はさっきから、使用人何人かの耳にも届いていたのだ。ところが誰もが尻込みして、男の元へ駆け付けようとはしなかった。
 男は昨日、全長32センチ、刃厚6ミリもあるハンティングナイフを百貨店の外商に持って来させ、専用のベルトシースに入れて車椅子にぶら下げていた。そんな主人の姿に、
「とうとう本当に、頭がおかしくなってきたんじゃない?」 
「誰かに狙われてるって、本気で思ってるのよ!」
 などという会話が、朝から何度となく使用人らの間で繰り返される。  
 そんな中唯一、三ヶ月前に入ったばかりの1人が、ゆっくりと男のいる部屋へと向かっていた。歳の頃は30くらいか、使用人の制服をしっかり着込んでいるわりに、身体全体から匂い立つような女の色香を発散させている。
 その顔を覗き見れば、彫りの深い顔付きが見事なまでに美しい。その姿を目にした誰もがきっと、女が使用人であるなんてことに微塵も気付きやしないだろう。
 女は元々、男のいる部屋とは真反対にある休憩室にいた。建物だけで300坪にもなるこの屋敷の端っこにいて、本来なら男の声など聞こえる筈がない。
 ところが、女は男の声を聞いていた。
「愛菜! 愛菜はいないのか!?」
 耳に差し入れたイヤフォンから、そんな男の声がしっかり響いていたのだった。
 女は歩きながらイヤフォンを耳から外し、無線機本体を胸ポケットから取り出した。その本体に、手慣れた手付きでイヤフォンコードを巻き付ける。そして廊下に置かれていた花瓶の裏に、それを隠すようにしてそっと置いた。そうしてやっと、
 ――愛菜は、とっくにお出かけよ!
 そんな言葉を心密かに念じながら、男のいる部屋の扉の前に立つ。それから、1つ外れていた胸元のボタンを更に2つ外し、シャツ襟ワンピースの裾を下へ少しずつ引っ張っていった。
  すると突き出た胸の谷間が露になって、彼女はそれを満足そうに覗き見る。そして後ろで束ねていた長い髪を振り解き、大きく息を吸い込んでからやっと扉を開けていった。
 するとすぐ正面に屋敷の主人がいて、でっぷりと膨れ上がった肉体がまっすぐ女に向いている。彼は目だけを動かし女を睨み付けると、抑え気味ではあるが、それでも充分力強い声で言い放つのだ。
「愛菜はどうした!? 俺はさっきからずっと呼んでるんだぞ!」
「申し訳ございません。奥様は、先程お出かけになられたようです」
「何? 出かけた? どこへだ、あいつはどこへ行ったんだ?」
「いえ……私どもは何も聞いておりませんので……」
 そう返した瞬間、女の足元で何かがガシャンと音を立てた。
 慌ててその先に視線を向けると、黒い携帯が勢いよく壁際まで転がっていく。
 それはまさしく男の携帯であり、きっと何度も、それで妻と連絡を取ろうとしていたのだろう。ところが一向に出てくれない。電源を切っているのかも知れなかった。女は一瞬だけ顔を強ばらせるが、すぐにまた元の顔付きに戻って、
「もしよろしければ気分転換に、お庭へでもお連れしましょうか……?」
 更にそう言いながら、転がっている携帯の方に歩み寄った。そして片膝をほんの少しだけ屈めて、尻を突き出すようにしながらそれを拾い上げる。
 女は手にした携帯を両手で包み込むようにして、ゆっくりと車椅子の方に近付いていった。
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