第5章  現実 –  黒い影(3)

文字数 952文字

                  黒い影(3)


 そして、瞬がその部屋に入って5分くらいが経った頃、患者の心肺停止を告げる器械音が響き渡る。
 元からのピッピッという音が消え、ピーというけたたましい連続音に突然変わった。
 医師が老人に近付き、老婆の握っている手とは別の方の腕を掴み上げる。そして手首の脈がないことを確認し、医師は今まさに最後の勤めを果たそうとするのだ。
 ところがそのちょっと前から、瞬は人生で初めてという驚きの光景を目の当りにする。
 影が、ゆっくりと浮かび上がったのだ。
 連続音に変わるちょっと前、張り付いていたものが老人の身体から離れ始め、真上2メートルくらいまでフワフワと浮かび上がる。横になっているシルエットそのままで、まるで老人の影がそこにあるようだ。
 そんなものが離れてしまったお陰か、老人のシミだらけの顔や手には、粉を吹いたような白い皮膚の色が戻っている。
 瞬は昔、幼稚園で小池誠一くんにも同じ影を見ていたのだ。ただそれは完全に浮き上がったところではなく、まさに離れ行こうとする瞬間だった。
 その日の朝、瞬が目にした誠一くんもまるで老婆のようで、制服から覗く手や脚は勿論、どちらかと言えば色白だった顔が何度見直しても真っ黒に見える。
 ――死んじゃう!
 瞬は即座にそう感じて、朝っぱらから大騒ぎを繰り広げた。
 しかし彼の奮闘も虚しく、誠一くんはマイクロバスに乗り込もうとするのだ。
 その時瞬の目に、影が誠一くんのシルエットを保ちつつ、その肉体から抜け出そうとしているのが見えた。既にへそ辺りから上は誠一くんの頭上に出ていて、彼がバスのステップを上がる度に、上へと伸びる影もゆらゆらと揺れていた。
 死がほんの間近にまで迫り来ると、黒い影は肉体からさっさと――老人の場合はあまりにあっという間だったし、年齢、死に至る理由などによって、その速度は変わるのかもしれないが――離れ始める。そして影が完全に離れてしまったら、人は死に至ることになるのだろう。
 きっと走り出したバスの中で、影は誠一くんの身体からどんどん抜け出ていった。目の前の老人の影と同じようになって、道路に横たわる己の無惨な姿を、彼は空間を漂いながら見ていたのかもしれないのだ。
 そして更に、まさしく問題はそこからだった。
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