第1章  日常 - 菊地瞬の世界(2)

文字数 1,235文字

               菊池瞬の世界(2)  

 そして、ふと気が付くと、事務所には誰も残っておらず、終業時刻の5時をとうに過ぎている。それでも正面を見据えて居残っているのは、それなりにちゃんとした理由があるからだった。
 俺の席の前には、向かい合うように後藤さんの机がある。更にその先には、隣の事務所とを遮る一面の白い壁があった。
 ところが今……真っ白い壁にぽっかり穴が開いている。半径1メートルちょっとの円を描いて、そこから向こう側が丸見えだった。
 向こう側が丸見え――とくれば、当然隣の事務所だって大騒ぎ? と思うのが普通だろう
 ところが透き通ってしまった――としか言い様のない場所には、隣の事務所なんかありはしない。まるで意味不明の光景が映し出され、なぜかそこに、男がいたんだ。
 初めはそいつ、俺なんかにまるで気付いてなかった。
 皿にある何かをフォークで口に押し込み、2、3回咀嚼したくらいでまた大きな固まりを口の中に放り込む。そんなことを繰り返す男の顔は膨れ上がって、首から下は細身の俺の3倍はありそうだった。そいつがついさっき俺に気が付き、それからはジッとこっちを睨み付けている。
 このまま待っていれば、間違いなく俺に向かって何か言ってくるんだ。そして例えここで無視しても、どうせまたすぐ現れるに決まっている。
 ――悪い……今日は付き合ってやる気分じゃないんだ、ごめんよ……
 だからすぐにそう思って、俺は即座に立ち上がった。
 そのまま誰もいない事務所をさっさと逃げ出す。それから本当ならば、いつも通りまっすぐ帰る筈だったのに……。
 
 ――なんで? こんなに!?

 俺はこの時、久しぶりに大いに驚いた。
 通りに出た途端、たくさんの〝あいつら〟を目にしたからだった。
 一切色味を持つことなく、光の反射具合で人の姿らしくなんとか見える。例えて言うなら、薄暗いバーでスポットライトに照らされ、そこだけくっきり浮かび上がった煙草の煙って感じか? そんなだから日陰に入ると、そいつらは途端に見え辛くなる。
 これまでも、そんな透明人間もどきが現れることはあったんだ。
 ただ1人2人というのが精々で、現れてもすぐにどこかへ消えてしまう。
 ところが今俺の前には、数え切れないくらいやつらがいて、通りを埋め尽くし闊歩している。 
 分かるだろ? 通りに溢れ返ったそんなのと、一緒に歩きたいなんて誰が思う? 
 だから俺は、たまには裏道から帰ってみようと、迷うことなく細い路地へと入っていった。そして暫く歩いていて、ふと、道に迷った? そう感じたのは辺りが薄暗くなっていたから。
 30分もあれば帰宅できる筈が、きっと6時くらいにはなっていたのかも知れない。
 見回せば、未だ見知らぬ光景が広がって、ここ数日雨など降っていないのに、足元がかなり泥濘んでいる。更にジメジメした空気が辺り一面に充満し、まったくもって、そこは嫌な感じだった。
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