第3章 異次元の時 -  矢島愛菜(2) 

文字数 1,792文字

                 矢島愛菜(2)


 
 声は誰もいない空間に向けられ、まさに鬼気迫る印象に伝わり響く。
 一斉にそこにいる全員の目が矢島に向いて、
「おい! おまえらにはあれが見えんのか!?」 
 そこで初めて、矢島の視線が正面から外れた。
「ほら、そこだ! すぐそこに……」
 そこまで言って、矢島は再び使用人から己の正面に目を向ける。 
 ――え? 
 矢島の動きがピタッと止まった。
 驚きは声にはならず、その表情だけにしっかりと浮かぶ。やがて矢島の顔が大きく歪み、手からナイフとフォークが滑り落ちた。テーブルの上がガチャンと鳴って、2人の使用人が慌てて駆け寄ってくる。
 その間、矢島の顔付きは面白いように変化した。
 大きく開かれていた目をしばたかせ、更には首をぐっと前方に突き出す。そうしておいて、その顔全体を上下左右へと振り動かすのだ。しかし目線だけは1点を見つめ、ずっと愛菜がいた辺りに向けられたまま。
 そんなことが十数秒続いて、突然フッと矢島の顔から力が抜けた。徐に使用人に顔を向け、何もない手でナイフとフォークを使う仕草をして見せる。
 2人は一瞬呆気に取られ、それでも慌てて新しいものを矢島の前にセットした。すると何事もなかったように、彼は再びステーキを口へ運び始める。そうして2人の使用人も胸を撫で下ろし、いつもの定位置へと舞い戻った。しかしもう1人は矢島を見つめたまま、その場にジッと立ち尽くして動かない。 
 女の名は谷瀬香織。
 この屋敷で働き始めて、日に日に膨れ上がる葛藤に大いに苦しんだのだ。
 そんな心の揺らぎの行き着くところは、いつも狂おしいまでのムカつきだった。
 矢島の両親は幼い頃に亡くなって、彼は親戚の家でお決まりの苦労を散々経験する。その後たった15歳かそこらで東京に出て、結果今あるような生活を手に入れた。
 そんなことがどれだけ大変なことなのか……。
 ――あの女は、まるで何も解っていない!
 あからさまに矢島を避ける様や、蔑むようなその目付きを知って、香織は愛菜のことがどんどん嫌いになっていった。愛菜には優しい両親が揃っていて、甘ったるい愛情と強固な道標の元、苦労など知りもしないで生きてきたに決まっている。
 ――いったい、あんたは何様なのよ!
 香織は次第に、心の底からそんなムカつきを覚えるようになったのだ。だいたい愛菜という女は、矢島の後にそのままでは風呂に入らない。
 「服を脱いでそのまま湯船に浸かるのよ。まったく、そんなことも教わってこなかったのかしらね……これだから育ちが悪い人って嫌なのよ!」
 肛門に付着した便や大腸菌だらけのお湯に、誰が入ろうなどと思えるのか……彼女はそう言って、使用人にだだっ広い風呂場を隅々まで清掃させ、新たにお湯を張らせるのだ。
 それ以外にも、食べ方が汚い――咀嚼の度に何とも粘っこい音を立てる――とか、服のセンスが田舎クサいだのと、次から次へと口にした。きっとそんな話を聞けば、香織が面白がるとでも思ったのだろう。ところがそんなグチを聞かされる度、愛菜への怒りが加速度的に増していく。そして決定的だったのは、
「やっぱり大事なのは教育よ。はじめはね、あそこまでの会社を作った人だからって思ってたの。でもそんなのは人間の品格とは関係なしね。自分の健康にも無頓着って、結局頭が悪いってことなのよ! だから最近、あの人はわたしに向かってなんにも言えない!」
 学もなく、自分より頭の悪い矢島は文句など言える筈もない。そう言って大笑いを見せる愛菜を、香織はたったひと月で完全に許せなくなっていた。
 ――わたしなら、あの人に優しくしてあげられるのに……。
 ジリジリと焦げ付くような思いに駆られて、彼女は一か八かの賭けに出た。万一この決心が裏目に出れば、すべてが振り出しに戻ってしまう。ただ上手くいったなら、夢のような生活が手に入るかもしれなかった。だからこそ慎重に、決して慌てないで事を運ぶ。そうすれば必ずや上手くいくと、香織は信じて疑わなかった。ところがここ最近の矢島を見ていて、そんな悠長な場合ではないと感じ始める。
 ――入院でもされたら、そこで、すべて終わりだわ……。
 矢島は既にステーキを平らげ、デザートのチーズケーキを頬張っている。そんな矢島を前に、香織は決行の時を思い浮かべて、ただただ緊張の面持ちを見せていた。
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