第5章  現実 –  黒い影(6)

文字数 1,498文字

                 黒い影(6)


 暫くの間、ジッと2人を見つめ立ち尽くす瞬の姿が、逝ってしまった老人へのものと思ったのだろう。看護師がそっと傍に近付き、呟くようにお悔やみの言葉を掛けてくる。彼はその声によって、ようやく今すべきことを思い出した。
「お婆さんもたった今、お爺さんと一緒に逝かれてしまったようです……」
 だから彼は天を仰ぎ、誰に言うとはなしにそう声にする。その瞬間、病室を出て行こうとしていた医師が、虚を突かれたような顔で瞬の方を振り返った。続いて奥に座る老婆へ視線を送る。同じ時、「あ……」という声が聞こえて、医師の視線は再び動き、声の主である看護師へと注がれた。彼女は老婆のすぐ傍にいて、両手を胸に当てある一点を見つめている。瞬の声によって老婆へ近寄り、彼女はすぐにその意味を確かめようとしたのだ。ところがそうする直前、不意に何かを見つけてしまった。上を向き、看護師はそのままの体勢で微動だにしない。そして今やその先を、医師も同様に見つめていて、部屋にいる3人が3人共同じ空間に目を向けている。
 内田定夫、と、その妻とよ子……2人は手を取り合って、今まさに天へ上がっていこうとしていた。白い天井が光り輝いていて、その輝きの中心に2人がゆっくりと吸い込まれていく。やがてその姿が消え去ってしまっても、瞬は暫し天井から目を離すことができなかった。
 この時、医師と看護師が見ていたのは、俗に〝オーブ〟と呼ばれる発光体。そこそこに大きいものが2つ、付かず離れずの状態で揺らめきながらフッと消えた。たったそれだけのシーンだったが、2人にはかなりの衝撃だったらしい。更にその後暫くの間、瞬は病室から出て行くことができなかった。やはり夫婦には子供がおらず、比較的近しい――と言っても、一度も見舞いにきていない程度の――親類がやって来るまで、病室に留まって欲しいと頼まれたのだ。当然、しっかり事情は説明した。そんなことが却って、
「今時、君のような高校生がいるんだなあ……大したもんだよ!」
 と、居合わせた医師に感嘆の声を上げられてしまう。辛そうに見えた老婆に声を掛け、そのまま負ぶって病院までやって来た――などと耳にして、
「バス停で声を掛けたまではいいとしてさ、負ぶってここまでって、どうしてそこまでしてあげようって思えたのかな? いくら辛そうだからって、おばあちゃんは取りあえず、自分で歩いてバス停まできたんだろう? だったら普通は、そんなことまでしないよね」
 笑顔を見せながら瞬に向かってそう言った。そして更に、彼は急に眉間に皺を寄せ、
「ところでさ、君はいったいどのバス停から、ここまで歩いてきたんだい?」
 と、まさに芝居染みた声を出したのだ。そんなことを聞かれて、「彼女の死を知っていたから……」などと答えようものなら、本当に帰して貰えなくなるかもしれない。とにかくそんなこんなで、結局彼が解放されるのは、午前中の試験が終わる1時間とちょっと前。
 彼は病院の玄関口で、並んでいるタクシーを見つけて思わず足を止めていた。タクシーなら学校まで30分。幸い財布には、貰ったばかりの小遣いが手付かずのまま入っている。ところが彼はその時、タクシーに乗り込むという選択をしなかった。なぜだか懸命に駅までの道を走って、結果学校に着いたのは試験終了の5分前。当然試験結果は惨憺たるもので、残りの試験での奮闘も虚しく、成績は中くらいから一気に最下位グループにまで落ち込んだ。更に彼は遅れてきた理由を一切語らなかった。先生にこっぴどく叱られても、ただ「すみません」の一言だけで最後までを押し通した。
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