第5章  現実 - 見知らぬ女

文字数 1,055文字

                 見知らぬ女


「しゅん……?」
 ――誰?
「瞬……」
 ――誰、だよ。 

 二度目の声に、またそんな台詞が思い浮かんだ。しかし声にはならず、彼はそこでやっと我に返った。
 いつの間にかしゃがんでいた。
 目を瞑り、なぜか両手で耳をしっかり塞いでいる。
 どうしてこの格好でいるのか? 理解するのに2呼吸くらいの時間が掛かった。

 ――俺は、あの時未来の無事を祈って……。

 それから数秒後のことなのか? それとも1分ぐらいが経過しているのか? 
 目を閉じたままそこまでを思って、瞬はふとその静けさに気が付いた。
 耳にこびり付いた旋律が、今はまったく聞こえてこない。慌てて手を離し耳を澄ますと、遠くから子供たちの笑い声が聞こえている。公園でもあるのか? 一瞬だけそう思ったが、あの高層階にいて聞こえる筈がなかった。
 とすればいったい? 彼はドキドキしながら目を開けていく。
 するとそこには床などなくて、明らかに道路であろう地面があった。
 いつの間に? 瞬はついさっきまで、マンションの一室にいた筈だった。なのにまた知らないうちに、望みもしない場所に来てしまったらしい。しかしこれまでとは違って、瞬はこの現象の意味がしっかりと理解できた。
 ――俺は……もう生きてはいないんだ……。
 だから一瞬にして消え去っていたって不思議じゃない。
 これまでもきっと、こんなことが何度も繰り返されてきたのだと、彼は素直にそう思った。更にはこんな事実を知ってしまったら、長くはこの世界に留まっていられないだろう。
 ――未来は俺より先に気が付いて、今頃は天国にいるんだろうか……?
 そう思いながら、瞬はやっとアスファルトの地面から顔を上げた。やっぱりそこは室内ではなく、もちろん彼の知っていた世界でもなかった。ゆっくりと立ち上がって上を向くと、さっき度肝を抜かれた建物が未だ天高くそびえ立っている。
 ――やっぱり、俺はあの部屋から逃げ出したんだな……。
 そう思って見上げる建物のどこかで、男は今頃まだ、オニオンくさい息を吐き出しながらビールを呑んでいる。
 ――くそっ!
 旨そうにビールを口に運ぶ姿が思い浮かんで、言いようのない怒りが込み上がった。そしてほぼ同時に、窓に映っていた景色にも意識が及ぶ。
 そこに、夕闇が迫っていたのだ。最初あのマンションを見上げた時、既に太陽は沈みかけていた。ところが今、見上げる先には見事な青空が広がっている。太陽がしっかりと東の方にあって、昼食の時間にもまだかなり時間がありそうに思えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み