第5章 現実 – 25年前(2)
文字数 1,573文字
25年前(2)
「あら、随分早いじゃない! 2年生になって、少しはいい点取ろうって意欲が出てきたの? ねえ瞬! そうなんでしょ?」
玄関で靴を履きかけている瞬の耳に、いきなりそんな声が響き渡った。
振り返るまでもなく、母、康江が台所から顔を覗かせ、言っているのだろう。
彼は背中を向けたまま「行ってきます」とだけ言って、無視を決め込み玄関口から飛び出した。
彼はこれまで一度も、クラブ活動というものをちゃんとしたことがなかった。だから運動部の連中のように朝練に出ることもなく、いつも学校到着は始業時間のギリギリだ。
中学の時はそれでも、最低1つのクラブ活動が義務付けられていたので、彼は仕方なく卓球部に席だけは置いていた。ただ実際に出たことは1度だってなく、学校が終わればすぐ帰途に就くという生活がこれまでずっと続いている。
とにかく目立たぬように毎日を過ごして、休みの日は極力家の中でじっとしている。そんな彼が朝食も取らず家を出たのは、勿論成績のことなど関係なかった。単にいつもより早く目が覚めたことと、早い時間であればそれだけ、通学途中で混み合った状況に出会さないで済む。ただそんなふうに思ってのことだった。
バスや電車等の乗り物や、繁華街のように人が集まる空間が大嫌い。本当なら学校にだって行きたくないが、幸い高校生くらいで人はそうそう死にはしない。
ただ学校の行き帰りでは、結構な頻度でその瞬間が訪れた。
嘘……だろ? そんなふうに思ってしまう程、何人もの姿を同時に目にすることだってあったのだ。きっとそんなのは、乗り合わせたバスが事故に遭うとか、彼ら目掛けて上から何か落っこちてくるって感じだろう。
死が近い。そんなことだけが見えて、これまで得したことなど1度もない。
だからその日も前だけを見据えて、余計なものを目にしないよう彼はバス停に急いていた。
橋を渡って横断歩道を右に折れると、すぐに小田急と東急のバス停がある。瞬はいつもそのバス停から10分程揺られて、学校へ通う為に私鉄駅まで行っていた。
その日、いつもより時間が早いせいか、バス停には3人程が並んでいるだけ。
瞬はサラリーマン風の男性の後ろに並んで、ふとバスがやって来る方向へ目を向ける。その瞬間、後ろを振り返ってしまったことを思いっきり悔やんだ。
ならばすぐに前を向いてしまえばいい。そうして目にしたものをスッパリと忘れ去る。しかしそう思ってしまうには、それはあまりに深刻過ぎた。
視線の先10メートルくらいに、年老いた女性の姿があったのだ。
彼の並ぶバス停目指して、小さな老婆があまりにゆっくり近付いてくる。一歩の歩幅がもの凄く狭く、まるで左右の脚の長さが違うかのように、足を進める度に老婆の身体が左右に揺れた。
――突然死……?
ふとそんなことが頭を過る。その印象からすれば、瞬が目を離した途端倒れ込んだって不思議じゃなかった。どう楽観的思考を用いようが、昼までだって持ちそうにない。となれば無視を決め込んでも、それは最善の策とはならないのだ。
このまま素知らぬふりをして、運良く? 老婆が終点まで持ち堪えたとしても、彼女の行く手には死の世界が大口を開けて待ち構えている。
――まだ、生きているだろうか?
誰にも気付かれないまま……なんてことになっていたら? バスを降りてもそんな心配をし続けるくらいなら、とことん付き合った方が気が楽なのだ。
当然ここまでの状態でなければ、彼は喜んで見なかったことにしただろう。だが今この瞬間の老婆の姿は、本来なら道端で出会えるようなものじゃない。病院のベッドで寝ているか、悶え苦しんでいたって不思議じゃなかった。見れば本人もやはり辛そうで、瞬は後ろに並んだ老婆の耳に、小声でそっと呟いたのだ。
「あら、随分早いじゃない! 2年生になって、少しはいい点取ろうって意欲が出てきたの? ねえ瞬! そうなんでしょ?」
玄関で靴を履きかけている瞬の耳に、いきなりそんな声が響き渡った。
振り返るまでもなく、母、康江が台所から顔を覗かせ、言っているのだろう。
彼は背中を向けたまま「行ってきます」とだけ言って、無視を決め込み玄関口から飛び出した。
彼はこれまで一度も、クラブ活動というものをちゃんとしたことがなかった。だから運動部の連中のように朝練に出ることもなく、いつも学校到着は始業時間のギリギリだ。
中学の時はそれでも、最低1つのクラブ活動が義務付けられていたので、彼は仕方なく卓球部に席だけは置いていた。ただ実際に出たことは1度だってなく、学校が終わればすぐ帰途に就くという生活がこれまでずっと続いている。
とにかく目立たぬように毎日を過ごして、休みの日は極力家の中でじっとしている。そんな彼が朝食も取らず家を出たのは、勿論成績のことなど関係なかった。単にいつもより早く目が覚めたことと、早い時間であればそれだけ、通学途中で混み合った状況に出会さないで済む。ただそんなふうに思ってのことだった。
バスや電車等の乗り物や、繁華街のように人が集まる空間が大嫌い。本当なら学校にだって行きたくないが、幸い高校生くらいで人はそうそう死にはしない。
ただ学校の行き帰りでは、結構な頻度でその瞬間が訪れた。
嘘……だろ? そんなふうに思ってしまう程、何人もの姿を同時に目にすることだってあったのだ。きっとそんなのは、乗り合わせたバスが事故に遭うとか、彼ら目掛けて上から何か落っこちてくるって感じだろう。
死が近い。そんなことだけが見えて、これまで得したことなど1度もない。
だからその日も前だけを見据えて、余計なものを目にしないよう彼はバス停に急いていた。
橋を渡って横断歩道を右に折れると、すぐに小田急と東急のバス停がある。瞬はいつもそのバス停から10分程揺られて、学校へ通う為に私鉄駅まで行っていた。
その日、いつもより時間が早いせいか、バス停には3人程が並んでいるだけ。
瞬はサラリーマン風の男性の後ろに並んで、ふとバスがやって来る方向へ目を向ける。その瞬間、後ろを振り返ってしまったことを思いっきり悔やんだ。
ならばすぐに前を向いてしまえばいい。そうして目にしたものをスッパリと忘れ去る。しかしそう思ってしまうには、それはあまりに深刻過ぎた。
視線の先10メートルくらいに、年老いた女性の姿があったのだ。
彼の並ぶバス停目指して、小さな老婆があまりにゆっくり近付いてくる。一歩の歩幅がもの凄く狭く、まるで左右の脚の長さが違うかのように、足を進める度に老婆の身体が左右に揺れた。
――突然死……?
ふとそんなことが頭を過る。その印象からすれば、瞬が目を離した途端倒れ込んだって不思議じゃなかった。どう楽観的思考を用いようが、昼までだって持ちそうにない。となれば無視を決め込んでも、それは最善の策とはならないのだ。
このまま素知らぬふりをして、運良く? 老婆が終点まで持ち堪えたとしても、彼女の行く手には死の世界が大口を開けて待ち構えている。
――まだ、生きているだろうか?
誰にも気付かれないまま……なんてことになっていたら? バスを降りてもそんな心配をし続けるくらいなら、とことん付き合った方が気が楽なのだ。
当然ここまでの状態でなければ、彼は喜んで見なかったことにしただろう。だが今この瞬間の老婆の姿は、本来なら道端で出会えるようなものじゃない。病院のベッドで寝ているか、悶え苦しんでいたって不思議じゃなかった。見れば本人もやはり辛そうで、瞬は後ろに並んだ老婆の耳に、小声でそっと呟いたのだ。