第6章 混沌 -  母親

文字数 1,368文字

                   母親


 さっきまで瞬のすぐ傍には未来の寝顔があって、1人静かに宍道湖の水面を眺めていたのだ。ところがそうして間もなく、想像もしていなかった空間へ1人旅立つことになる。
 そんなことから数時間前、岡山での奮闘に加えて、やくもの揺れが効いたのだろう。未来はもう、ホテルに辿り着くのがやっとという状態だった。部屋に入るなりシャワーだけ浴びて、「ごめんね瞬、わたしもうクタクタで……」と言うが早いか、敷かれてあった布団の上ですぐに寝息を立て始める。だから瞬は、日本百景の一つでもある宍道湖の夜景を眺め、1人朝がやってくるのを待つことにした。
 月明かりに光る水面は穏やかで、彼はふと、この地で生まれ育った母親へと思いを馳せる。瞬が行方不明になるちょっと前、母、康江は癌でこの世を去っていた。そのことを彼は何も覚えておらず、つい先日未来の言葉によってようやく知った。ただ高校時代の思い出など、未来のお陰で記憶はかなり戻ってきたのだ。なのにこの頃のこととなると、靄が掛かったように何も思い出せなかった。大学4年の時であるなら、母親は40歳とちょっとでこの世を去ったということになる。
 ――母さんの人生って、いったいどんなだったんだろう? 
 更にそれは、幸せと言えるものだったのか? そんなことを以前の瞬は、きっと考えようともしなかった筈だ。そして、40歳と少しという年齢に、未来はもうなってしまっている。更に彼女は、その人生の半分近くを、瞬という不確かな存在に振り回されながら生きてきた。
 ――未来、本当にそれで……よかったのか?
 頭に浮かんだ疑念と共に、瞬は宍道湖の水面から彼女の寝顔に視線を移した。すると白い布団の上、ちょうど未来の胸元辺りに、黒いシミなようなものが目に留まる。目にゴミでも入ったかと思うがそれは見る見る大きくなって、やがて未来の姿を覆い隠してしまうのだ。そしてふと気が付けば、それは部屋全体に広がって、瞬は漆黒の闇の中にいたのである。身体が宙に浮かんでいるようで、いつもなら感じる足裏の感触が全然ない。物音一つ聞こえず、微かに香水のような匂いを感じた。ただそれは本当に微かなもので、化粧品の残り香程度のものなのだ。仕方なくジッとしていると、ほんの少し目が慣れてきた。左側奥の方に小振りの出窓があって、そこから微かに光が漏れている。しかし厚い雲が夜空を覆っているのだろう。カーテンの隙間から覗く先にも、暗い闇が広がっているだけだ。そうしているうちに、瞬はそこが見覚えのある部屋だと知る。少しずつ部屋の風景が見え始めて、12畳程の部屋の隅っこに、やはり知っている横顔を見つけ出したのだ。
 ――おかあさん……。
 勿論、声を出したって聞こえる筈もない。けれどその佇まいに何かを感じて、瞬は心の中だけでそう呟いた。そこは紛れもなく未来の昔の部屋で、彼女が学生時代使っていた机に、なんと彼女の母親が腰を下ろしている。何かを食い入るように見つめて、まるで息さえしていないように微動だにしないのだ。そうしてそのまま数分間、瞬はその姿から目が離せなくなる。彼女が見つめているものを知って、母親がなぜそうしているのかを理解したからだった。やがて、不意に彼女が何かを言った。そんな小さな呟きに、瞬は思わず息を飲んだ。
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