第6章 混沌 -  呪縛(2)

文字数 2,969文字

                  呪縛(2)

 
  とにかく、自分の娘がそんなのと付き合っている。これには康江の父親は怒り狂った。ただそれが却って、康江の気持ちに火を点けることになる。
「ちょうどその翌日、京が東京に行くのを聞いていたらしくて、それにくっ付いて行っちゃったんですよ。こっちはそんなこと知らないから大騒ぎでね、自殺するんじゃないかって、そこら中探しまくって、それはもう大変だったんですよ」 
 ところがその二日後、呆気なく康江だけが東京から戻ってくる。
「その頃は東海道新幹線が開通する前だから、確か東京まで、10時間どころじゃない時間が掛かった筈ですよ。向こうで2泊したと言っても、今で言う日帰りくらいの感じだったでしょう。ただまあ、なんとか無事に帰ってきた、良かった良かったってなもんでね。それから暫くは何事もなく、家出騒ぎのことなんて、もうみんな忘れかけてた頃でしたよ。いきなり、わたしのところに康江の父親から連絡があったんです。康江が妊娠したって、それでその相手が二階堂京だって言うんですよ」
 その後、淳一が何度教団に連絡しても、豊子からは何のリアクションも返ってこない。康江は生むと言って聞かないし、既に6ヶ月に入っていて堕ろすこと自体が難しい状況。そこで二階堂家と繋がりの深い淳一に、お願いしようということになったのだが……。
「もうその頃は、簡単に話ができるような人じゃなくなっていてね、幾ら教団に問い合わせても連絡がつかないし、京の方も東京とを行ったり来たりで、なかなか会えないまま時間だけが過ぎていったんですよ……」
 そんなことを一気によどみなく聞かされ、未来はすぐ傍にいる瞬のことが気になって仕方がない。康江が二階堂京の子を妊娠。更に堕ろすことが難しい状況とくれば、そんな話に続く結末は、父親の違う兄弟の存在へと続くのか、それとも……? きっとすぐ傍で聞いている瞬も、衝撃の事実にさぞかし驚いていることだろう。そんなふうに思って、
 ――瞬……。
 未来は瞬の名を心に念じながら、座り直す振りして彼のいる方を振り返った。
 さっきまで、彼は居間の隅っこにいたのだ。座卓を挟み、淳一と向かい合って座る未来の斜め後ろの方で、不安そうな顔を見せていた。ところが……、
 ――どうしたの……?
 瞬が消えかかっているのだ。それは既に、どこか別の風景を見ている顔で、未来が視線を向けたことも気付いていない。そして淳一の方に向き直った未来にも、彼がその後すぐに消えてしまったんだと感じ取れた。
 それから、淳一の話は予想に違わぬ方向へと進んでいく。
 二階堂家とは何の進展も見られぬままに、康江は未婚のまま実家にて出産。その後も何かと関わっているうちに、康江と一緒になってもいい、そんなふうに思えるようになったと淳一は言った。この辺のところはさすがに話し難かったのか……ここに来て一気に彼の話は大まかになっていた。そして赤ん坊が一歳の誕生日を迎える頃、2人はひっそりと祝言を上げる。
「まあそうなるまでにも、二階堂家とは色々とあったんですわ。だから一緒になってすぐに、わたしは康江と赤ん坊を連れて、島根から東京に出てきたんです」
 戸籍上も巧く実子とできたし、康江の両親もそれから程なくして亡くなった。だから康江の地元に近付きさえしなければ、もちろん夫婦揃って口を閉ざすのだから、瞬がそのことを知ることはない。
「ずっとそう思って、康江ともその頃の話は一切しませんでした。しかしあいつは、きっと何かで気付いたんでしょうね……」
 経緯を知っている者はごく少数だったし、瞬がいなくなった頃健在だったいずれも、彼とは面識さえない遠い存在だったのだ。それでも何かで、きっと瞬は知ったのだろう。確信を持つまでには至らなくても、そんな事実の一端を知り、確かめる為に出雲へと旅立った。そして崖から落ちてしまうようなことが、恐らくは突然、彼の身に降り掛かった。
 ――瞬、それはいったい……なんだったの?
 そんな思いと共に、未来は再び、瞬の消え去った辺りに目を向けるのだった。
 今頃どこを彷徨っているのか? そして消失する瞬間、彼はこの事実を知っていたのか? 未来はそんなことばかりが気になって、この後大した話もせずに瞬の実家を後にする。結果、日御碕については何一つ聞かないままで、未来は電車に乗ってそんなことに気が付いた。そして未来の前から消え去った瞬も、驚く程すぐに未来の元へと戻っていた。
 実は彼は消え去った後、思いの外すぐ傍にいたのだった。ふと気が付けば二階にある自分の部屋――だったところ――にいて、つい数日前までそこにいたような印象を覚える。相変わらず未来の洒落た部屋とは違って、6畳の畳に布団をしまう襖と、まるで昭和の時代そのものといった部屋。見れば覚えのあるカーテンは完全に陽に焼けていて、棚にある本の背表紙も白っぽくなっている。白抜きのタイトル文字なんかは、見事ベースの色と一緒くたになって読みづらいのだ。見れば見るほど、長い時間の経過が至るところに感じられ、けれどそのこと以外は何も変わっていないように思える。そんなところに強い意思の力が感じられ、勿論、そんな意思の持ち主とは父親以外の何者でもない。そして彼はふと視線を下に落として、ふいに少しの腹立たしさを覚えるのだ。
 ――くそっ……。
 間違いなく、瞬はそれに見覚えがあった。
 ――どうして、こんなもののことは、ちゃんと覚えてるんだ……?
 今瞬の視線の先に、壁にぴったりと寄せられた勉強机がある。その上にJRの時刻表がポツンと一冊置かれていた。それは紛れもなく瞬が買ったもので、これで汽車の時刻を調べて彼は出雲へ旅立った。そして更にこの一冊こそが、一番変わり果ててしまったものなのだ。ヨゴレて汚くなったということでは決してはない。あった色は抜け落ちていたが、表紙はピンとして四隅もきちんと尖ったままだ。ところが厚みが全然違った。これ以上ないくらいに膨れ上がっていて、その厚さが元の倍以上になっている。なのに手垢一つ付いていないのだ。何度も何度も手に取って、そして傷まぬよう頁を捲っていたのだろう。1年や2年どころではない長い年月、日々捲られ続けた軌跡がそこにはあった。康江に線香を供えるように、彼は日々この時刻表を手にしていたに違いない。長年連れ添った連れ合いを癌で亡くし、それからたった数週間で1人息子が行方不明になる。更に一年後には、その息子を失ったも同然となるのだ。ちょっと涙が……なんて程度ですむ筈がなかった。
 瞬にとってこれまで、淳一という存在は然程大きいものとは言えなかった。それでも大学まで出して貰って、その挙げ句こんなことになっている。申し訳ないな、くらいのことは何度だって思った。しかしこの部屋にあった現実を知って、さっき受けた衝撃が大きく変質していくのを瞬は感じる。
 ――ごめんよ……僕はそんなこと、全然知らなくて……。
 そして20年前、あの日御碕に立っていた自分は、本当にそのことに気付いていたのか? そんなことを思えば思う程、瞬の目からは涙が流れ出し、彼から離れる瞬間小さな光を放って消える。そのうちに、再び目の前に薄ら未来が見え始め、と同時に彼の姿も霞んでいった。
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