第6章 混沌 -  血脈

文字数 2,516文字

                   血脈


 彼が母親から手紙を貰うのは、人生で二度目のことだった。一度目は東京に出てきて20年くらいが経った頃だ。そして今回、それから更に20年して再び届いた手紙だった。ただ内容は基本同じようなもので、もういい加減帰って来いという意味のもの。そして彼は最初の手紙で、一度は郷里に戻る決心をしていた。ところがそこで、忘れ去っていた過去と最悪の出会いを経験する。この土地にいる限りそんなものから逃れようもないと悟って、彼は再び出雲の土地を捨て去ったのだ。だからもう二度と、豊子の顔を見ることはない。そう決めていた筈だった。ところが手紙を読み進めていくうちに、そんな決心も徐々に揺らぎ始める。まるで別人の手紙だった。達筆という言葉さえ、陳腐に思える程の筆さばきだった筈が、まるでミミズが這ったようで文章の体裁さえ整っていない。何とか読めはするものの、あの豊子が書いたものとは到底思えやしなかった。
 ――どうしたんだ? あんたに、いったい何があった……? 
 何か大事――例えば脳梗塞で倒れた等のこと――があれば、すぐにでも教団から連絡があるだろう。それがないということは、少なくとも健康上のことが原因だとは思えない。利き腕の怪我くらいのことであれば、代筆を頼む相手など腐る程いる筈だった。更に不思議だったのは、これまでの高圧的な物言いが、一切影を潜めていたことだ。例え息子であろうとも、弱みなど微塵も見せない母だった。頭を下げるなら死んだ方がマシ――ずっとそう言い続けていた筈……が、
 ――さすがに、歳には勝てないということか?
 戻って跡を継いで欲しいと、手紙には懇願さながらに綴られている。
 確かに、95歳という年齢を考えれば、普通ならそんな変化があっても不思議じゃない。しかし豊子に限って言えば、そんなことさえが信じ難いのだ。今だに総裁として君臨し、教団が主催する大会への取材ニュースや週刊誌などで、つい数年前まではその健在ぶりを見せつけていた。
 ――あいつはいったい、この先いつまで生きる気だ?
 もしかするとまた20年過ぎ去っても、豊子は変わらずにいるのではないか? そんなふうに思える程に、彼女はどこまでも強く強靭に見えた。
 20年前、出雲に戻った彼を迎えた彼女は、やはり昔と何も変わらぬ豊子だった。家を出た19歳の頃と同じように、彼のすべてを取り仕切り、豊子の望まぬことはないのも同じ。言う通りにすればいいのだと、これが彼女の思うすべてだった。ところが今回手紙には、そんな印象など微塵もない。年老いて、並の人間に成り下がったのか? そう思うと同時に、京自身も同様に歳を取ったということだ。いずれ豊子と同じような瞬間が、いつの日か自分にも訪れる……。
 ――この辺が、潮時か……。
 そんなことを思って、張りつめていたものがフッと小さくなったのを京は感じた。絶対君主だった豊子という存在がなくなれば、このままここにいる意味などない。好きで東京に居着いたわけではないし、生きていくのに都合が良かったというだけのこと。19歳で出雲を出てからの二年間、最初はどこで何をしても上手くいかなかった。豊子からくすねてきた大金も使い切り、三年目には東京下町にある小さなスナックで働き始める。そこで彼が始めたちょっとしたお遊びが、意外にも夜の街で評判となったのだ。
 ――手を握っただけで、辛いことや悩んでいることをズバリ言い当てる。
 そんな評判が更なる噂を呼んで、店に様々な人間がやってくるようになった。そうなると本来の仕事どころではなくなって、彼は知り合いの所有するビルの一室を借り受け商売を始める。昔、二階堂家からさっさと放り出された豊子が、就学前の京と生きていく為に始めた占いという生業を、彼も流れの中で選択することになっていた。
 人間は誰でも一つや二つ、人に言えない心の闇を抱えているものだ。そんなものを敢えてズバリ言い当てるのではなく、ソッと包み込むようにして助言を与える。だいたい夜の世界で働いている女たちは、深い闇を抱え込んでいる場合が多かった。高度成長期真っただ中という時代、陽の光を浴びている者たちと彼女らの間には、今とは比べ物にならない確固たる隔たりが存在した。そしてそんな闇の中を覗き込んで、彼は具体的なことを言わないようにする。例えば、「逃げた方がいい」ではなくて、先ずは「辛いでしょう」と口にするのだ。最悪のぐうたら男でも、ただ別れれば自ずと幸せになれるという訳ではない。だから相手の反応やその容姿によって、ただ一緒になって悲しんだり、場合によっては新たな出会いをほのめかしたりもした。そして流れ込んでくる記憶があるからこその、相手が喜ぶような言葉を彼はいつでも選んで使った。ただ中には、始める前から疑念が渦巻いている場合もある。対抗心剥き出しで、
 ――占えるものなら占ってみろ! このインチキ野郎め!
 相手に触れた途端、そんな思念が飛び込んでくるなんてことも結構あった。そんな客には大抵の場合、疑念を消し去る為の荒療治を行なう。だいたいそんな客に限って、ドロドロした闇に忌まわしい記憶を抱えて生きている。本人さえ気付かぬうちに、消し去りたい記憶であればある程、いつも心奥底で意識しているものなのだ。だからそんな記憶が飛び込んできたところで、過去のシーンをそのまま本人へと送り返す。客の意識はその瞬間過去の記憶の中に放り出され、経験した恐怖同じく震え上がることになるのだった。
 その後は、すぐに受け入れ信用するか、いつまでも現実を受け入れられず悶絶するかのどちらかだ。
 結局こうして、彼も昔の豊子と同様に、本来憎み嫌っていたものに縋り切って生きてきた。所詮蛙の子は蛙。オタマジャクシはどう足掻いても、蛙にしかなれないと心底悟って、彼は再び出雲に戻ろうと心に決める。しかしただ一つだけ、彼にはこの地でやり残したことがあったのだ。
 ――あいつを、このままにはしておけない。幕引きは……やはり俺の手で……。
 そうして彼は、更なる決意を心に刻み、必要最低限の荷物を手にしてそのマンションから出て行った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み