第5章  現実 –  黒い影(5)

文字数 1,094文字

                  黒い影(5)


 老人が何事かを呟いた――と思えた――瞬間、瞬の目も老婆の方に向いたのだ。
 見上げていた視線を下ろして初めて、彼は新たなる事実を目の当りにする。
 きっとそれは、瞬の知らぬ間に色を持ち、浮かんでいる老人へと近付きつつあったのだろう。先に気付いた老人が何かを呟き、優しげな笑顔を浮かべてそっとその手を差し出した。
 その手の先に、なんと老婆の姿があった。
 背中を丸めるようにして、彼女も宙にポッカリ浮かんでいる。そして彼女もまた、ほぼ正面にいる老人を見つめていて、その横顔は明らかに笑顔だった。
 バス停からずっとだった能面のような表情ではなく、皺だらけの顔に安心し切った笑みを湛えている。一方老人の視線もまっすぐ老婆に向けられ、それ程仲のいい夫婦ではなかったのかも……などと、一瞬でも思ったことが恥ずかしくなるくらい、2人には互いを思い合う〝気〟のようなものが感じられた。
 ――ありがとう。
 不意に、瞬の心に微かな思念が伝わった。
 紛れもなくそれは、目の前に浮かぶ2人からのものだ。
 ――あなたのお陰で、とよ子とこうして……一緒に行くことができるよ……。
 続けて、老人の方からそんな言葉が伝わってきて、瞬は今一度、ベッド脇に佇む老婆へ目を向ける。
 〝とよ子〟と呼ばれたその老婆は、依然丸椅子に腰掛け、頭を下げて眠ってしまったように見える。
 しかし決してそうではないのだ。
 さっきまでは黒かった彼女の姿が、今は至極普通に見えた。
 明らかに影が抜け出たせいであり、その黒い影が死神なんかであろう筈がない。
 肉体が死を迎えて、その魂がやっと本来の姿に戻ったということだろうか? 瞬はこの瞬間、初めてそんな可能性を思った。そして同時に、さっき届いた2人の思念に、彼は心が震えて堪らなくなる。
 老婆の方の思念に、ここ数ヶ月に及ぶ記憶までが纏わり付いていたからだった。
 夫が入院してからの苦悩すべてが、体験したことのように彼の脳裏に伝わったのだ。
 夫の長期入院で貯金は底を尽き、年金だけではどうにもならない。頼るべき親しい知人もない老婆の財布には、たった数枚の小銭しか残っていなかった。もしあのままバスに乗り込んでいたら、帰りのバス代にだって窮していただろう。
 ――だから、タクシーに乗らなかったんだ……。
 そんなことにやっと気が付き、瞬は老婆から再び空中の2人の方へ目を向ける。
 もしかしたら彼女は、帰りなどないと知っていたのかもしれない。
 だからこそ最後の力を振り絞って、死の淵にいる夫の元にやってきた。
 そして今まさに、2人して天へ旅立とうとしている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み