第7章 真実 - 1985年(2) 〜 2005年

文字数 2,230文字

 1985年(2) 〜 2005年


 京がここを訪れるのは、中学校の行事で来て以来のこと。そして最初は気付かなかったが、淳一の名字が確か菊地だったのだ。瞬という名前などどうでもいいが、それならあの後、康江は淳一と一緒になって、それなりに幸せな日々を過ごしたのだろう。そう考えればこの若者に対して、何ら下出に出る必要などないと、京は心密かに思っていた。
「さあ、黙ってないで何とか言ってみろよ。おまえさんは、ここに来たかったんだろう? おまえのお袋が死のうとしたこの場所で、さあ、いったい何がしたいんだ!?」
「母さんが死のうとしたって? そんなデタラメ言わないでください!」
「デタラメじゃないさ、なんだ、知ってるんじゃないのか? おまえさんもろとも飛び込もうとしたんだよ、ほら、ちょうど俺が今立っているこの辺りからだ……」
 京はそう言って、わざわざ反り返るようにして後ろを向いて見せた。
 康江がどこから飛び降りようとしたのか、実際は京だって知りはしなかった。ただとにかく、豊子の元にノコノコと戻ったせいでこんなことになっている。この若造は、いったい何を求めて現れたのか? そんなことを思えば思う程、焦げ付くような怒りが増幅していくようだった。
「死んだお袋さんから何を聞いたか知らんが、無闇に信用されちゃあいい迷惑だってことだ! だいたいな、お前のお袋が誰とガキをこさえようが知ったこっちゃねえが、少なくとも俺は関係ない。だからさっさと他を当たるんだな!」
 そんな京の声が響き渡った途端、若者の顔が大きく歪んだ。一方京の方は逆に、強ばっていた顔がフッと緩んで、イヤらしいくらいに口角が上がる。
「しかし親父さんには感謝するんだな。どんな野郎の子だかも知らないで、ちゃんとそこまで育ててくれたんだろう? そりゃあホント、感謝しなきゃあいかんわなあ〜」
 そう言って、ヒャッヒャッといかにも下卑た笑いを見せたのだった。
 すると次の瞬間、若者が勢い良く地面を蹴った。目の前の男を黙らせたいと、感情のまま京に向かって猛突進を見せる。両腕を差し向け、あと数十センチで掴み掛かろうという時だ。若者を避けるように京が身体を反転させた。と同時に、迫りくる腕を掴み上げようと腕を伸ばすが、寸でのところで空を切ってしまうのだ。あっと思った時には、視界に映る人影はなし。嘘、だろ? そう思ってはみたものの、京は暫し振り返ることさえできなかった。ただ幸いにして、辺りには人っ子一人いないのだ。
 ――誰も、見ていない。
 京はそんな事実を十二分に確認してから、海の方へと顔をゆっくり向けていった。

 
  2005年


 ――それでも生きていたのか……こんな姿になってまで、おまえはそれで幸せなのか? 
 京は過去の出来事を思い返しながら、己の決断への是非を今一度考えていた。
 そこは二度目となる病室で、二、三日分の着替え他をバッグに詰め込み、彼は再び瞬の前にその姿を見せていた。そしてそろそろ空港に向かわないと、出雲への最終便に間に合わなくなる。ところがさっきから、なんら思念の存在が感じられない。以前は病院に入り込んだだけで、どこかを浮遊しているだろう存在を感じることができたのだ。となれば消え去ったのか? そうだとすれば、ここにあるのは単なる肉の塊に過ぎない。
 ――やっぱり、おまえはあの世に行くのが一番……。
 京はそう心に念じて、更に一歩ベッドへ身体を寄せる。今度こそ本当にサヨナラだ。そう心で呟きながら、透明な酸素マスクを瞬の顔から取り去った。そうして剥き出しとなった口元へ、今度は両手を一緒に差し向けていく。ところがだった。掌にひやりとする感触を覚えたその時、京の手はビクッと震え、ほんの少しだけ口元から浮き上がった。
 ――戻って、来たのか……? 
 間違いなくそれは、京の掌から伝わったのだ。
 ――違う、そうじゃない! 俺に息子なんてものはいない!
 幾ら彼がそう念じても、空間を伝ってまでその思いは届かない。だからと言って、彼は二度とその肉体に触れようとはしなかった。
「さよならだ……」
 京は敢えて声に出し、
「もしおまえさんに運があるなら、肉体くらいは助かるだろうよ……」
 そう言ってから、ベッド脇に括り付けてあったナースコールを手に取り、そのスイッチを力強く押した。
 〝父さん、助けて……〟
 掌からいきなり伝わったその声は、紛れもなくあの声だった。菊地瞬と言います――と言って顔を強ばらせていた若者の意識が、たった今本来の場所に戻ってきたのだ。そしてもう二度と、思念だけで動き回ることはない。そう断言できるくらいそれは力なく、その存在自体が、風前の灯であると手に取るように伝わってくる。きっと、彼をそうさせていた心残りがなくなったのか……? もしかしたら、持っていた能力が尽きてしまったのかも知れない。ただどっちにしろ、微かに感じた思念も今や完全に消え去って、弱り切った肉体の中に埋没してしまったようなのだ。京は静かにナースコールを置いて、瞬の病室から悠然と出ていく。するとエレベーターに向かう途中で、少し慌てた様子の看護師とすれ違った。エレベーターの扉が開いてから目をやると、ちょうど一番奥にある病室に入っていくのが見える。助かるのか? 京は一瞬だけそんなことを思った。しかし心の疑念をすぐに打ち消し、
 ――もう、どっちだろうが関係ない。
 力強くそう念じて、そそくさとエレベーターに乗り込んだ。
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