第1章  日常 - 菊池瞬の世界

文字数 1,851文字

                菊地瞬の世界

 俺には昔から、何とも不思議な能力があった。
 そんな能力のせいで、俺のお袋は随分苦労していたのだと思う。
 ところがそんな辛い思いを、彼女は一切口にはしなかった。
 きっと親父にだって何も言わなかったに違いない。
 いつも何か起きると、決まって同じことだけを俺に向かってただ言った。
「瞬、誰にも言わないの……お願いだから、そうだって分かっても、絶対にその人には言っちゃいけないのよ!」
 彼女の言うそんな言葉を、小さい頃の俺だって、頭ではちゃんと理解していたんだ。
 ところがいざそんな場面に出会すと、どうしても黙っていられなくなった。
 きっとそうなれば誰だって、俺と同じ気分になると思う。なんとかしなくちゃって、そんな気持ちにだ。
 ところが小学校に上がるくらいになると、お袋の言う意味がどんどん心に響き始める。言っちゃいけない――そんなことを守らなかったらどうなるか? なんてことをその都度想像できるようになって、俺はいつしか何が見えても口にしないと心に決めた。
 ところがだ。それで楽になれるかっていうと、それはまるで違っていた。
 通りすがりの人なんかであれば、それはまったく以て問題ナシだ。
 余っ程の偶然がない限り――状態があまりに差し迫っている、なんて滅多にはない場合を除けば――その行く末を見守ることにはならないから。
 つまり、訪れる結果は変わらないってことだ。
 何をどう大騒ぎしたって、その先にある運命は変えられない。
 だから親しい人がそうだと知っても、俺は何もできずにただ平然としている。
 そんなことを繰り返していくうちに、小学校高学年になる頃には、人と関わることを避けるようになった。親しくさえならなければ、きっと苦しみも減る筈と、俺はこれまでずっとそう思って生きてきた。
 勿論23年間の人生の中で、例外がまるでないかと言えば嘘になる。
 だけどたった1人の例外を除けば、俺はほぼそんなふうにして過ごしてきたんだ。
 そしていつの日からか――きっと歳を取ったから? ――俺はそんな苦しみからも解放される。それまで見えていたものが気付けば見えなくなって、その代わりを頼んだわけでもないのに、もっとゾッとするものが見えてしまうようになった。
 ただこっちの方は、以前に比べれば精神的にはずっと楽。
 最初は驚いたが、一度慣れてさえしまえば、行動に移せる分ぜんぜん良かった。
 その日も、新たに備わった能力のお陰で、妙な体験をすることになって……。
 
 大学を卒業して丸1年、判で押したように同じことの繰り返しだったが、特に大きな不満もなく日々暮らしていた。
 きっとそう思えるのも、就職した会社が良かったからだと思う。
 残業は皆無、仕事はこれまた単純で、更に金に窮したことがないとくれば、給料だってそこそこだってことなんだろう。
 俺のデスクのすぐ隣には、ベテランのパートさんがいつだって座っている。
 何かと面倒を見てくれる彼女の名前は江戸聡子。小学生の娘さんがいるくらいだから、きっと40歳前後って年齢だ。ただ見た目の印象はもっと若い。机に飾られた娘さんの写真を見れば、昔はさぞ綺麗だったろうと、素直に思えるくらいの美貌を未だ保っていた。
 そんな若々しい彼女だったが、始終俺に身体の不調を訴えてくる。身体が燃えるように痛いと言って、背中やらどこやらをさすれと言った。
 昔遭った事故の後遺症らしく、酷い時には動くことさえ辛そうになる。
 そんな江戸さん以外にも、この事務所には風変わりな社員が結構いた。
 その日も、終業時刻にはまだ数分あるというのに、前にいる筈の後藤さんは既に消え失せている。不思議なことだけど、俺は彼の帰るところを見たことがなかった。いつも俺がよそ見をしているのを見計らって、さっさとドア向こうに消え去っているんだろう。
 後数ヶ月で定年だという彼のこんな行動に、この会社では誰も文句を言おうとしない。
 本来なら真っ先に注意すべき伊藤課長でさえ、今日は後藤さん同様知らないうちにいなかった。
 普通は、「お疲れさま!」くらい言って帰るだろう? 俺はいっつもそう思うんだ。
 だいたい、伊藤課長は事務所で滅多に口を開かない。だから俺は彼の声を聞いたことがあるのかと、時折不安になるくらいだった。
 とにかく、そんな一癖二癖ある同僚に囲まれて、俺のサラリーマン生活はまずまず順調だったんだ。
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