第5章 現実 – その真実
文字数 2,415文字
その真実
瞬は大概、いきなり現れることが多かった。
いつも予兆もなく現れ出て、ちょっとでも気に入らないことがあったり、都合の悪い現実に出会したりするとすぐに消えていなくなった。
その日も既に、ファミレスから突然消え去って3ヶ月が過ぎていた。いつもなら、1、2週間で現れる筈が、まるでその姿を見せてくれない。
ここ数年こんなことはなく、もう二度現れてくれないんじゃないかと思い始めていた頃だ。
勤めていた病院からの帰り道、まだ肌寒い春の日だった。それでも陽は確実に伸びていて、午後6時になっても眩い夕陽が未来の背中を照らしていた。そして駅から10分も歩けば、14年暮らしているマンションに着いてしまう。
その時も後100メートルくらいで、マンション入り口が見えてくるというところでだった。
車の行き来は少ない道路だが、それでも道の両側にしっかり歩道が設けられている。
いつものように未来は歩道右側を歩いていて、ふとその声に気が付いたのだ。
ちょっと待ってよ――そんな声が聞こえた気がして、立ち止まって辺りに目を向けた。前方には自転車が1台見えるだけで、となれば後ろからだと迷わず顔を後ろに向ける。
すると肩越しに人の姿が目に入り、その身体も一気に後ろを向いた。
そこに瞬がいたのだ。
驚いて振り返った未来の目に、夕陽に照らされた瞬の姿が確と映った。
――瞬!
思わずそう叫びそうになって、未来は寸でのところで思い止まる。こんな時、叫ぶなんてのが一番いけない反応だ。だから不安そうに見える瞬に向け、未来は精一杯の笑顔を見せた。更に当たり障りのない台詞を思い浮かべて、いざ話し掛けようとした時だった。
ガツン! 一瞬何が起きたのか分からない。
右肩にもの凄い衝撃があり、そのまま半回転して地面に叩き付けられる。
「気を付けろよ! くそババア!!」
すぐに若い男の声が響いて、未来は倒れ込んだまま前方を見やった。すると高校生の乗った自転車が、ちょうど瞬の身体と重なって見える。そしてあっという間に、自転車は瞬の後方で小さくなった。
この時、未来はちゃんと歩道の端を歩いていたのだ。ところが瞬の出現に振り返り、歩道の真ん中を塞ぐ形になってしまった。それでも高校生はスピードを落とさず、そのまま通り抜けようとする。
それどころか左腕に目一杯の力を入れて、邪魔なんだよ! まさにそんな苛立ち通りにぶち当たってきたのだった。
――ここは歩道だぞ! 気を付けるのはそっちじゃない!
未来は一瞬だけそんなことを思うが、残念ながら今はそれどころじゃない。
慌てて瞬の方を見上げると、地べたに這いつくばった彼女に、時が止まったように動かない瞬が目に入る。視点の定まらない目をして、魂が抜け落ちたような表情をしている。
彼は理解していないのだ。未来が自転車にぶつかったという現実も、その結果どんな状態でいるのかさえ、見ようとしないのかただ見えないだけなのか……瞬の目に映るのは、彼が思うままの未来でしかなかった。
結局、未来の膝小僧はざっくり割れて、地面に付いた右肘から掌までが見事に赤く擦り剥けた。それでも手足の痛みは、時間経過と共にうずく程度になってくれた。
ところが地面に打ち付けた横顔は、時間が経てば経つ程に腫れ上がってくる。心臓の鼓動の度に疼きが襲い、火鉢を押し付けられるような痛みをピリピリと感じた。
そしてそんな状態の未来を前にして、彼は平然と言ってくるのだ。
「久しぶりに今度の休み、2人でどこかに出かけない?」
脚を引きずりながら部屋に辿り着き、やっとソファに腰を下ろした途端だった。続いた言葉はもっと予想外で、未来はあまりの戸惑いに返す言葉も見つからない。
「遊園地なんてどう? 随分と行ってないじゃない?」
――どうしていきなり、遊園地なんてこと言い出すのよ!?
「いいけど……」
何とかそれだけ言って、頭の中では別の言葉が駆け巡った。
勿論付き合い始めの頃には、遊園地にだって行ったことはあったのだ。しかし瞬は元々高所恐怖症で、未来も遊園地の乗り物はあまり得意じゃない。だから互いのそんなところを知ってから、遊園地には一度も足を踏み入れていなかった。
更に言うなら、こうなってからの彼は自分から話すなんて稀で、たまに何か言ってきたとしても、目に映っている物事についてだけだった。過去にあったことを口にするなんて、これまでの彼にはまるでなかったことなのだ。
ただ口にするとは言っても、本当に声が消えてくるわけじゃない。
頭の中で、フッと言葉が浮かび上がってくる感じだ。
とにかく、遊園地に行こうなんて言い出してくるのは、やはり彼の状態に変化が起きているからだろう。未来は心に強くそう感じながら、改めてさっき目にした瞬の姿を思い出した。
これまでなら、一度しっかり現れてしまえば、そこに本当の人間がいるように見えたのだ。彼がいれば影になったところは見えないし、その姿を誰か他の人が見たなら、絶対に普通の人だと思うだろう。
ところがさっき、夕陽が透けて見えたのだ。
彼の上半身全体が薄ら金色に光って、おでこ辺りから沈みかける太陽がポッカリ浮かんで見えていた。
――透けてるよ! 瞬! 透けちゃってるよ!
そう心の中で叫びながら、それでも未来は瞬に向かって笑顔を見せる。
結局、透けていたのはその時だけで、部屋に入ってからはそんな印象も消え失せた。
ところがその後、遊園地なんてこと言い出したと思ったら、それからすぐに未来の前から消え去ってしまう。
きっと、何か別のものが見え始めたのだ。
瞬の興味はそんなものだけに向かっていって、それ以外は何も目に入らなくなる。やがて彼の影になっていた景色が見えるようになった頃、
――未来ゴメン、すぐに連絡するから。
そんな声が微かに響き、瞬は扉の向こうに消えていった。
瞬は大概、いきなり現れることが多かった。
いつも予兆もなく現れ出て、ちょっとでも気に入らないことがあったり、都合の悪い現実に出会したりするとすぐに消えていなくなった。
その日も既に、ファミレスから突然消え去って3ヶ月が過ぎていた。いつもなら、1、2週間で現れる筈が、まるでその姿を見せてくれない。
ここ数年こんなことはなく、もう二度現れてくれないんじゃないかと思い始めていた頃だ。
勤めていた病院からの帰り道、まだ肌寒い春の日だった。それでも陽は確実に伸びていて、午後6時になっても眩い夕陽が未来の背中を照らしていた。そして駅から10分も歩けば、14年暮らしているマンションに着いてしまう。
その時も後100メートルくらいで、マンション入り口が見えてくるというところでだった。
車の行き来は少ない道路だが、それでも道の両側にしっかり歩道が設けられている。
いつものように未来は歩道右側を歩いていて、ふとその声に気が付いたのだ。
ちょっと待ってよ――そんな声が聞こえた気がして、立ち止まって辺りに目を向けた。前方には自転車が1台見えるだけで、となれば後ろからだと迷わず顔を後ろに向ける。
すると肩越しに人の姿が目に入り、その身体も一気に後ろを向いた。
そこに瞬がいたのだ。
驚いて振り返った未来の目に、夕陽に照らされた瞬の姿が確と映った。
――瞬!
思わずそう叫びそうになって、未来は寸でのところで思い止まる。こんな時、叫ぶなんてのが一番いけない反応だ。だから不安そうに見える瞬に向け、未来は精一杯の笑顔を見せた。更に当たり障りのない台詞を思い浮かべて、いざ話し掛けようとした時だった。
ガツン! 一瞬何が起きたのか分からない。
右肩にもの凄い衝撃があり、そのまま半回転して地面に叩き付けられる。
「気を付けろよ! くそババア!!」
すぐに若い男の声が響いて、未来は倒れ込んだまま前方を見やった。すると高校生の乗った自転車が、ちょうど瞬の身体と重なって見える。そしてあっという間に、自転車は瞬の後方で小さくなった。
この時、未来はちゃんと歩道の端を歩いていたのだ。ところが瞬の出現に振り返り、歩道の真ん中を塞ぐ形になってしまった。それでも高校生はスピードを落とさず、そのまま通り抜けようとする。
それどころか左腕に目一杯の力を入れて、邪魔なんだよ! まさにそんな苛立ち通りにぶち当たってきたのだった。
――ここは歩道だぞ! 気を付けるのはそっちじゃない!
未来は一瞬だけそんなことを思うが、残念ながら今はそれどころじゃない。
慌てて瞬の方を見上げると、地べたに這いつくばった彼女に、時が止まったように動かない瞬が目に入る。視点の定まらない目をして、魂が抜け落ちたような表情をしている。
彼は理解していないのだ。未来が自転車にぶつかったという現実も、その結果どんな状態でいるのかさえ、見ようとしないのかただ見えないだけなのか……瞬の目に映るのは、彼が思うままの未来でしかなかった。
結局、未来の膝小僧はざっくり割れて、地面に付いた右肘から掌までが見事に赤く擦り剥けた。それでも手足の痛みは、時間経過と共にうずく程度になってくれた。
ところが地面に打ち付けた横顔は、時間が経てば経つ程に腫れ上がってくる。心臓の鼓動の度に疼きが襲い、火鉢を押し付けられるような痛みをピリピリと感じた。
そしてそんな状態の未来を前にして、彼は平然と言ってくるのだ。
「久しぶりに今度の休み、2人でどこかに出かけない?」
脚を引きずりながら部屋に辿り着き、やっとソファに腰を下ろした途端だった。続いた言葉はもっと予想外で、未来はあまりの戸惑いに返す言葉も見つからない。
「遊園地なんてどう? 随分と行ってないじゃない?」
――どうしていきなり、遊園地なんてこと言い出すのよ!?
「いいけど……」
何とかそれだけ言って、頭の中では別の言葉が駆け巡った。
勿論付き合い始めの頃には、遊園地にだって行ったことはあったのだ。しかし瞬は元々高所恐怖症で、未来も遊園地の乗り物はあまり得意じゃない。だから互いのそんなところを知ってから、遊園地には一度も足を踏み入れていなかった。
更に言うなら、こうなってからの彼は自分から話すなんて稀で、たまに何か言ってきたとしても、目に映っている物事についてだけだった。過去にあったことを口にするなんて、これまでの彼にはまるでなかったことなのだ。
ただ口にするとは言っても、本当に声が消えてくるわけじゃない。
頭の中で、フッと言葉が浮かび上がってくる感じだ。
とにかく、遊園地に行こうなんて言い出してくるのは、やはり彼の状態に変化が起きているからだろう。未来は心に強くそう感じながら、改めてさっき目にした瞬の姿を思い出した。
これまでなら、一度しっかり現れてしまえば、そこに本当の人間がいるように見えたのだ。彼がいれば影になったところは見えないし、その姿を誰か他の人が見たなら、絶対に普通の人だと思うだろう。
ところがさっき、夕陽が透けて見えたのだ。
彼の上半身全体が薄ら金色に光って、おでこ辺りから沈みかける太陽がポッカリ浮かんで見えていた。
――透けてるよ! 瞬! 透けちゃってるよ!
そう心の中で叫びながら、それでも未来は瞬に向かって笑顔を見せる。
結局、透けていたのはその時だけで、部屋に入ってからはそんな印象も消え失せた。
ところがその後、遊園地なんてこと言い出したと思ったら、それからすぐに未来の前から消え去ってしまう。
きっと、何か別のものが見え始めたのだ。
瞬の興味はそんなものだけに向かっていって、それ以外は何も目に入らなくなる。やがて彼の影になっていた景色が見えるようになった頃、
――未来ゴメン、すぐに連絡するから。
そんな声が微かに響き、瞬は扉の向こうに消えていった。