第5章  探求 - 江戸聡子(さとこ)(2)

文字数 2,581文字

                江戸聡子(2) 


 事務所と言ってしまうには、そこはあまりに重厚な機械類に囲まれている。作業をする社員は皆、一階にあるその部屋で、白い防護服に着替えてから上の階に上がっていった。
 俺たちはそんな作業員の為に、先ずは消毒済みの防護服をセットする。それから、どこかで不具合が起きていないかどうか、定時ごとに工場内を見回って計器類などをチェックするんだ。ただそんな仕事が終わってしまえば、次の時間まですることが殆どなくなる。今も早番だった後藤さんが見回りを終わらせて、俺の顔を見るなりニヤッと笑った。きっと、夜勤の為の仮眠室にでも行って、昼寝でもしてくるつもりなんだろう。ちょっと行ってくるよ――そんな顔付きを見せて、席に座りもせずに仮眠室のある方を向いたんだ。これできっと、後藤さんは夕方までは戻ってこない。こんなことでいいのかね? と思ったところで、上司である伊藤課長がいいんであれば何を思ったって仕方がない。なんてことをちょこっとだけ考えて、伊藤課長のことを横目でチラッと見た時だ。
 ん? まさにそんな感じだった。何してるんだよ? そう思って俺は江戸さんの方に顔を向ける。江戸さんなら俺とは違って、
「ちょっと課長! 何してるんですか? ちゃんと仕事してくださいよ!」
 くらいのことは、ビシッと言ってくれる筈だった。ところがだ。
 ――え、江戸さんも……?
 俺は思わず立ち上がり、そこで何かがおかしいことに気が付く。伊藤課長だけじゃなかったのだ。更に江戸さんだけでもなくて、後藤さんまでがおかしなことになっていた。仮眠室に向かった筈の彼は、未だその扉を見つめたままそこにいる。
 3人が、揺れていた。3人ともその場に立ち尽くしたまま、身体をゆらゆらと前後左右に揺らしているんだ。何が、起きてる? そう思った瞬間、誰かが俺を呼んだような気がした。入り口を向く。だけど誰もいない。そうさ、いる筈がないんだ。なぜかそんなふうに思って、俺はまた元の空間に目を向ける。するといきなり違っていた。
 ――ちょっと待ってくれ! いったい、何が起きてるんだよ!
 もしこれが現実なら、これまでどうして気付かなかったのか? 
 新たに、たくさんのものが浮かび上がっていたのだ。3人だけだったこの部屋の至るところで、元は人間だったろう姿が揺れている。どれもこれも五体満足には程遠く、皆真っ黒になったボロボロの防護服を着込んでいた。ある者は両足がちぎれ、ある者は顔の半分が吹き飛んでしまっている。
 そんな中、伊藤課長には口がなかった。鼻から下が削ぎ落とされていて、黒ずんだ骨らしきものがぶら下がっているだけ。仮眠室へ続く扉の前には後藤さんがいて、彼の腰から下には何も残っていなかった。もしこれで歩ける者がいたとすれば、それはまさにお化けなんだということになる。
 なんだ、そういうことだったのか! 後藤さんがいつも知らぬ間にいなくなるのも、伊藤課長がぜんぜんしゃべろうとしないのも、みんな当然のことだった。俺はそんなふうに納得して、さっきまで感じていた恐怖さえすぐに忘れ去った。そして不思議なくらい自然に、俺は再びこの空間に同化しかける。だからもしこの時、このまま数分くらいが経っていたなら、本当のところどうなっていたか分からない。だけど幸いにして、一度は通り過ぎようとした異質な存在が、微かに俺の心の声を耳にして立ち止まった。

 そんなことから20分くらい前のこと、今だ門の中を覗き込んでいる未来の後ろを、通学途中の高校生3人が通り掛かった。その時、朝っぱらから何をしている? くらいに思ったのだろう。騒がしく響いていた彼らの声が、あるところでピタッと止まる。何気に後ろを振り返ると、3人の視線がパッと逃げるように他へと向いた。そしてそのまま通り過ぎようとする彼らに、気付けばその思いが言葉となるのだ。
「あの、ごめんなさい! ちょっといいかしら!」
 結構な大声に、3人は殆ど一斉に振り返った。
「あの、いきなりごめんなさい。実はお願いがあって、変なことを言うようだけど、わたしをこの門の上まで持ち上げてもらえない?」
 〝わたし〟のところを、未来は一瞬、〝おばさん〟と言い掛けて口ごもった。しかし実際未来くらいの年齢であれば、高校生の息子がいたって不思議はない。だとすれば、彼らにとってまさしく自分は〝おばさん〟だ。すぐにそう思い直して、あえてそう言い直し後の言葉を更に続けた。
「この中に、〝おばさん〟の飼い猫が入っていっちゃったのよ……」
 だからおばさんを助けて頂戴! そんな印象を最大限に込めて、未来は両手を合わせて拝んで見せた。
 間違いなく自分は、彼らにはしっかり〝おばさん〟だろう。だとしても、43歳という年齢の割には、未来は自分を若々しい方だと思っていた。だからこんな申し出に、いかにも高校生らしい大仰なリアクションを覚悟していたのだ。ところがだった。3人はちょっとした目配せと短い言葉で、さっさと未来を担ぎ上げる体勢を整えてしまう。先ずは3人のうちの2人が門へと近付き、一言二言言葉を交わした。すると彼らは腕を交差するように組み合わせ、お互いの掌をしっかりと握り合う。そのまま2人がしゃがみ込むと、すぐに残った1人が未来に向かって言ったのだった。
「この2人の肩につかまって、両足をこいつらの手のところに乗せてください。2人が立ち上がってもフラつかないように、僕が後ろからちゃんと支えますから……」
 そう言って、一番上背のある彼もまた、さっさと門の方へ歩いていった。 
 なんということ? 今時の高校生ってこんなに大人? そんな驚きで一杯のまま、未来は恐る恐る言われた場所に足を置く。するとあっと言う間に押し上げられ、そう苦労することなく門の真上を跨ぐことができた。重心を取りつつ振り返ると、高校生らは既にさっさと歩き去ろうとしている。そんな彼らに向けて、未来は手を振りながら大きな声で礼を言った。
「ありがとね! 楽しい高校生活を!」
 そんな未来の声に、唯一話し掛けてきた高校生が振り返り、
「こちらこそいいもん見せて貰いました! 夢に出てきそうですよ、ヒラヒラの付いた真っ赤なやつが!」 
 そう声にした途端3人は一斉に走り出し、そしてあっという間に見えなくなった。
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