第6章 混沌 -  松江から 

文字数 1,524文字

                   松江から
 

 どうしよう……? このままそおっと抜け出すか? 何度かそんなことも思ったが、出口まで誰もいないなんてことはまずあり得ない。途中で誰かに見つかって、それでも逃げ出そうとすれば大騒ぎになるだろう。
 ここに連れてこられるまでに、未来は完全に正気を取り戻していた。だから入り口で集った視線に下を向き、聞こえてくるヒソヒソ声に耳を傾けながら、言われるままにこの部屋までやってきた。
 ガン! まさにそんな音が聞こえた気がした。
 真横から何かがぶつかってきて、痛い! と思った次の瞬間、何が何だか分からなくなる。けれど気を失っていたのは、きっとほんの数秒間くらいだ。気付けば男性2人が未来の顔を覗き込み、1人はなんと未来の背中に乗っかっていた。
 何か大声で騒いでいる人がいる。気が触れたくらいに思った男子高校生が、そう言って駅員に未来のいる方を指差したのだ。見れば女性が線路に向かって歩いていて、駅員は間もなく到着する各駅のアナウンスをし終えたばかり。既に出雲市方面から列車の姿が遠くに見えて、ホームの端、やはり同じ方向に未来の姿もあったのだった。
 その瞬間誰もが皆、危ない! そんな印象を感じた筈だ。駅員が走り出し、すぐに高校生もその後に続く。2人は一切声を出すことなく、ただただ懸命に走ったのだ。そうして駅員の伸ばした右手が未来の胸元に掛かった時、既に彼女の右足の下にホームはなかった。
 今でも、左耳の上がかなり痛んで、そっと触ればその辺りはあまりに大きく膨らんでいる。駅員は未来をホーム側に押し戻すと同時に、勢いのまま身体ごとぶつかって来たのだった。
 当然彼女は横倒しになって、更にその上に駅員が覆い被さる。その時、未来の側頭部がコンクリートにぶち当たって、フッと辺りが真っ暗になった。
 そんなことがあって、未来が何をどう訴えても、駅員は未来を自由にはしてくれなかった。
 確かにあの状況を思い返せば、気の触れた中年女が、何事かを喚き散らしながら列車に飛び込もうとした――そう思われても仕方がない。それにしてもいつまでここで待てばいいのか? 駅長室の奥にある救護室に入れられ、
「なんなら、そのベッドに横になって待っていてください」
 折り畳み式の簡易ベッドを指差し、駅員は未来を残しさっさと部屋から出て行ってしまった。不思議なことに、住所や親族の連絡先などは一切聞かれていない。それはラッキーだったが、携帯電話は電池切れで、どこにも連絡できないまま既に30分近くが経過している。まさか、病院に連れて行かれる? なんてことをふと思ったが、やがてそれよりあり得そうなことが思い浮かんだ。
 ――警察官が迎えにくるなんてこと、ないわよね……? 
 そう感じた途端、未来は居ても立ってもいられなくなった。やっぱり逃げ出そう! すぐにそう決心して、
「すみません、トイレに行かせてください」
 できるだけ平静を装い、それでもそこそこ大きな声でそう言った。しかし扉の向こうからの反応はない。聞こえなかったの? そう思って、鞄を手にしてベッドから立ち上がった。そのまま鍵のかかっている扉に近付き、右手にしっかり拳を作る。そしてそれを扉に向けようとしたその瞬間だ。
 カチャッという音がして、扉がスッと部屋の向こう側へ開かれた。
 あっと思った未来の前に、突然紺色の制服姿が現れたのだ。
 この時未来の判断は最高に素早い。今を逃せば完全にアウト。そう感じた時には右足は床を蹴り、駅長室の出口に向かって猛突進を見せていた。ところがそんな逃避行もあっという間に終焉となる。いきなり響き渡った呼び掛けに、未来は一瞬にしてすべての力を失ってしまう。
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