第5章  現実 –  苦悩(2)

文字数 1,173文字

                苦悩(2)


「それは、本当に悪かったと思ってる。だけど今はな、お父さんもお母さんも、そんなことはまったく思っていないぞ。だから少し、お父さんの話を聞いてくれ、お願いだ……」
 普段とはまったく違う声色に、それなりに何かを感じ取ったのだろう。未来は少しだけ考える素振りを見せてから、ゆっくりその身体を起こしていった。そして床に足だけを投げ出して、ベッドの端っこにちょこんと座る。
 しかしその顔は下を向いて、聞けと言うから仕方なく……という雰囲気そのもの。
 それでも慎二はホッとした顔になり、
「もし、彼が今、記憶を無くしていたら? ということなんだ……」
 そう言った後、未来の反応を確かめるようにして、ほんの一時、間を空けた。
「全部じゃなくても、名前や生年月日、住所まで忘れてしまえば、彼の周りにいる誰も彼が誰だか分からなくなる。普通は荷物やらなんやらで知れる筈なんだが、その荷物がなくなっていれば、今頃まだ瞬くんは、自分が誰だか分からないでいるのかもしれないぞ。それに警察にだってミスはあるんだ。だいたい全国で出される家出人捜索願いってのは、1年で8万件くらいあるんだから、ひょっとしてどこかの警察署が、彼の情報を見落としているのかもしれないし……」
 多少演技じみた言い回しでそんなことを告げてから、慎二は床に放り置いた電話帳を拾い上げる。そして未来の眼前にそれを突き出し、力強い声で更に続けた。
「これで、先ずは全国にある大学病院や総合病院に電話を掛けていくんだ。それでダメなら、次は入院施設のある専門病院……それでもダメだったら、後は手当たり次第に病院と名のつくところに掛けまくってみたらいい。少なくとも、自分の意思でいなくなったんじゃないって、未来には確信があるんだろう? であれば何か事故にでも遭って、どこかの病院に収容された。そして残念ながら彼は記憶を失っている。そういうことだって、きっとあると思うんだ……」
 例え既に退院していても、その履歴は必ず残っている筈と、慎二は未来に向かって、一緒に、彼を探そう――そう告げて、更にリビングに行こうと誘うのだった。
 そしてそんな言葉に、未来は意外な程素直に従った。
 リビングには既に母、優子が待ち構えていて、テーブルの上に懐かしい黒電話がポツンと置かれている。電電公社が民営化される前で、携帯電話は当然のこと、コードレスフォンさえない時代。
 たった1回線で、親子電話がせいぜいという時代だった。
 だから親子3人が揃っていても、電話できるのは1人だけ。
 それで全国の病院に電話するとなれば、いったいどれくらいの時間が掛かるのか? 
 きっと慎二と優子もその無謀さを、心の底で充分感じていた筈だった。
 しかしそんなことはオクビにも出さず、2人は未来に向かって言い放つのだ。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み