第5章  探求 - 元いた世界    

文字数 1,068文字

                 元いた世界
    
 
「ちっ」
 思わず鳴らした舌打ちの後、フッと吐いた息が真っ白くなる。
 確かに、春とはいえまだ3月後半だ。間違いなくこの時間、外は凍えるような寒さだろう。
 しかし男がいるのはマンションの一室で、つけたばかりだがちゃんとヒーターが入っている。なのに洗面所はまるで表にいるような寒さだった。男は服を脱ぐ手を止めて、辺りの様子をそっと窺う。
 どう考えても、この異様な冷気は普通じゃなかった。
 しかし彼にとって、それは決して珍しいことではないのだ。ただここ数日は消え去っていたので、いきなりのご登場に少しばかり動揺してしまった。
 ――どうして戻ってきたんだ? どこかへ行っちまったんじゃないのか?
 忌々しくもそう思って、男はさっさとその洗面所を後にする。そのままリビングルームに戻ると、暖まっていた筈の空気が消え失せ、そこはまるで冷蔵庫の中のようだった。
「くそっ!」
 思わずそう声にして、睨み付けるような目を何もない空間に向けた。何者かが潜んでいるとでもいうように、辺りを見回しながら声を荒げる。
「もういい加減にあきらめたらどうなんだ!? おまえはもう死んでるんだ! 幾らここに出てきたって、俺にはどうすることもできないんだよ!」
 言い終わっても尚、男の視線は辺りに向かって動き続ける。
「いいか……おまえさんは死んでるんだ……」
 そうなってしまった理由を、彼はまさしく知っていた。だからこそのそんな言葉に、予想もしていなかったリアクションが返る。
 ――僕は、死んでなんかいない……。
 男の脳裏へ直接響き、彼の視線がある一点でピタッと止まる。
 そこに、微かな光の揺らぎがあったのだ。微妙に揺れ動く光がポッカリと浮かんでいて、塗れもなくそれが男へと逆らいの思念を伝えていた。しかしそんな筈はないのだ。
 ――生きている、筈がない!
 だから更に強く思った。
 ――おまえは確かに死んだんだ! 頼むから、もう二度と戻ってくるな!
 そしてそのままを声にしようとした途端、光の揺らぎがフッと消え去る。
 そんな思念が伝わったのか、纏わり付いていた思念同様、全身を包み込んでいた冷気までが嘘のように消え失せる。
「おまえは、本当に死んじまったんだよ……残念ながら……な……」
 既にいないであろう存在に向け、男はやはり、そう言わずにはおれなかった。そしてふと、遥か昔の記憶が蘇って、
「恨むんなら俺なんかじゃなく、あのばあさんの方にしてくれよ……」
 と、さっきまで揺らぎのあった辺りを見つめて、男はポツリとそうを呟いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み