第3章 異次元の時 -  葬式(2) 

文字数 1,461文字

                    葬式(2)



 瞬はハンカチの裏側で浅い息を繰り返しながら、台所から畳の部屋まで周りの様子を窺った。そこは畳四畳半で、開け放たれた障子の奥にもう一つ部屋がある。どちらの空間にも人の気配はなくて、それどころかまるで生活感が感じられない。家具やらなんやら、何一つそれらしいものが置かれていないのだ。
 ただ唯一畳に残された汚れや傷跡が、ここで営まれていたものが〝普通〟ではなかったと感じさせた。瞬は見ているのが辛くなり、すぐにそこから離れて奥の和室へ移動する。するとこれまで、障子の陰になっていたものが唐突に姿を現した。
 アパートの北側、隣の家の壁だけを映し出す窓の下に、勉強机のような小さな台が置かれている。その上に額に入った大きな写真が飾られていて、瞬はそこに写っている人物を間違いなく知っていた。その表情は柔らかく、記憶にある顔とは段違いに化粧も薄い。軽くウエーブの掛かった髪を肩まで垂らし、パステルカラーの花柄ブラウスが、いい感じにその胸元を覆い隠している。
 そこに写っていた人物、それは谷瀬香織だったのだ。地下室で見せた淫靡な感じは完全に消え失せ、上品で美しい女性という印象だけがそこにはあった。 
 ――やっぱり、あの女も死んでたんだ……。
 きっとあの地下室のどこかに、彼女の死体もあったのだろう。瞬はそう思って、何気なくその写真に手を伸ばしかける。その時、また時が彼を置き去りにした。捨て置かれていた瞬の記憶が、フッと目の前に差し出されたように、それはいきなり現れる。
 ――どうして? 
 顔をしかめる瞬の瞳に、ゆうちゃんの笑顔が確と映った。
 谷瀬香織の写真の横に、ゆうちゃんの顔写真が並んでいたのだ。母親と同様黒い額に収まって、その横で安心し切ったように笑顔を見せている。さっきまでこの世を彷徨っていた彼女が、今やっと本来の場所に戻ることができた。そうなってこの瞬間、目の前に現れ出たんじゃなかろうか? 瞬はそんな想像をして初めて、ここまで来たことをほんの少しだけ後悔する。
 ――葬式の……写真だ……。
 祭壇に飾られる遺影に違いない。そんなことに意識及んだせいか、どこからかお経を読む声までが聞こえてくるのだ。どこかこの近所で、やはり葬式でもやっているんだろう。瞬はただそう思って、見上げていた顔を再び2つの写真に向ける。すると同時に、遺影写真がグニャリと歪んだ。溶け出した飴細工のように、見る見る額縁ごとその形を失っていくのだ。ドロドロと流れ出したそれは空間に吸い込まれ、あっという間に小さくなってフッと消える。ところが瞬にとって、それは単なる始まりに過ぎなかった。息つく暇もなく、更なる驚きの現象が目に飛び込んでくる。
 遺影写真から始まった歪みは、その範囲をあっという間に広げていたのだ。
 吸い込まれた遺影に感染してしまったように、周りの風景が例外なく壊れていった。
 気が付けば歪んだ空間全体が渦を巻いて、次々と同じところに吸い込まれ消えていく。そしてとうとう、渦を巻いた天井が歪み流れ出した時、そこからまったく別の光景が現れ始めるのだった。
 覆い隠していた布切れが取り払われていくように、それは次から次へと姿を現していく。そんなものがこの部屋を覆い尽くした時、いったい何が起きるのか? このままここに居続ければ、きっと自分も吸い込まれてしまう!? そんな恐怖を感じて、瞬は思わず身体を反転させた。そして一気に玄関まで走る。そう思っていた筈が、一瞬にして腰から下が凍り付く。
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