第3章 異次元の時 - 矢島英二(3)
文字数 1,779文字
矢島英二(3)
しかしこのリハビリを真剣にやっていれば、今頃は歩けていたかもしれないのだ。
彼は最初から諦めムードで、ちょっと辛くなるとすぐに放り出してしまう。結果、満足に歩けないまま退院となり、その後通院してリハビリを続けることなど一切なかった。
その頃の矢島は、かなり精神的に追い詰められていて、
――すべては、あいつがいなくなったせいだ……。
だからあいつを呼び戻す以外、何をしたって意味がない……などと、完全に思い込んでいたのだった。そして、「女には、せいぜい注意することだな……」と言い残した占い師の言葉が、次第にどうにも気になって仕方がなくなる。
――まさかあいつが、俺を殺そうとしているのか……?
だから占い師は結婚について異議を唱えた。
とうとうそんなふうにまで考えるようになる。彼は妻が雇い入れた料理人と、結婚してから働き始めた使用人全員を解雇して、新たな条件で求人を掛けた。
そんなことはすべて、長年付き合いのあるコンサルティング会社に任せて、矢島は更にそこへ、防犯の専門家まで依頼する。そして再び行方を探し始めてすぐ、占い師の所在も判明するのだ。
セキュリティのプロフェッショナルだという男が着任早々、
「ずっとそこに住んでいたらしいですよ……」
そう言って差し出した報告書には、矢島が知り尽くしているマンション名が記されていた。
以前連絡が取れなくなった時、占い師はマンションには帰っていなかった。張り込んでいた探偵社は彼を見つけられなかったし、となれば、矢島が諦めた後戻ってきたのか?
――あいつが……マンションに戻っている。
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、矢島はハイヤーを呼ぶよう言い付け、慣れない松葉杖と共に占い師の住むマンションへ向かった。ところがセキュリティロックの数字が変更されていて、エントランスに入ることもできない。
そこで彼は仕方なく、部屋ナンバーをセキュリティインターフォンへ入力する。すると驚く程すぐに、聞き覚えのある声がスピーカーから聞こえてきた。
「誰かと思えば、あんただったか……随分久しぶりだが、俺に何か用か?」
「お願いだ、まずはここを開けてくれ……頼みが、頼みがあるんだ」
「頼み? あんたとの縁はもうとっくに切れた筈だ。今さら、あんたに何が起きようと俺にはまったく関係ないね……そうだろう?」
そう言った後ひと呼吸置いて、彼は矢島への最後の言葉を口にする。
「せいぜい、傍にいる人間に気を付けるんだな……」
そんなこと言わないでくれよ! そう声にしようとした矢島の耳に、ブツッという鈍い音が響いた。と同時に通話ランプがその色を失って、
「おい! 二階堂! おい!」
矢島は慌てて部屋ナンバーを再入力するが、二度と彼の声は響かない。
占い師は既にインターフォンから離れて、リビング中央に置かれた白いソファの前にいた。
しかしなぜか座ろうとはせず、立ったまま高層階からの景色に目を向けている。
遥か遠くまで見通せる眺望が、脳裏に故郷の景色を蘇らせていたのだ。
勿論、ビルだらけでまさしく人工的に映るそれは、実際の故郷とは大違いだ。しかし彼にとってはそのどちらも、縁遠く思える景色に違いはないのだった。
更にふと、インターフォン画面に映った矢島の姿を思い出し、
――だから、あの女は止めろと言ったのに……馬鹿な男だ、まったく……。
そんなことを一瞬だけ思う。
しかし過ぎ去ってしまった過去同様、矢島の運命は最早変えようがなかった。脳裏に浮かんだ矢島には、深い闇に命が宿ったような黒い影が、その全身にしっかり纏わり付いていた。
あそこまでになってしまえば、あと三月と保たないだろう……。そこまでを思って、彼はやっとソファに腰を下ろす気になる。
「本当に、さよならだ……」
誰に言うでもなくそう呟くと、傍らにあった小さなリモコンを手にして、そのまま1回軽く振った。するとどこからともなくピアノの旋律が響き、ジャッキー・マクリーンのサックスの音色が聞こえてくる。
ここ最近、彼は深夜に帰ってくると、〝マル・ウオルドロンのレフトアローン〟を好んで聴いた。勿論今は深夜などではないし、宵の口にもまだ時早い。それでもいつもの悲しげな音色は、心を癒すかのように広いリビングに響き渡った。
しかしこのリハビリを真剣にやっていれば、今頃は歩けていたかもしれないのだ。
彼は最初から諦めムードで、ちょっと辛くなるとすぐに放り出してしまう。結果、満足に歩けないまま退院となり、その後通院してリハビリを続けることなど一切なかった。
その頃の矢島は、かなり精神的に追い詰められていて、
――すべては、あいつがいなくなったせいだ……。
だからあいつを呼び戻す以外、何をしたって意味がない……などと、完全に思い込んでいたのだった。そして、「女には、せいぜい注意することだな……」と言い残した占い師の言葉が、次第にどうにも気になって仕方がなくなる。
――まさかあいつが、俺を殺そうとしているのか……?
だから占い師は結婚について異議を唱えた。
とうとうそんなふうにまで考えるようになる。彼は妻が雇い入れた料理人と、結婚してから働き始めた使用人全員を解雇して、新たな条件で求人を掛けた。
そんなことはすべて、長年付き合いのあるコンサルティング会社に任せて、矢島は更にそこへ、防犯の専門家まで依頼する。そして再び行方を探し始めてすぐ、占い師の所在も判明するのだ。
セキュリティのプロフェッショナルだという男が着任早々、
「ずっとそこに住んでいたらしいですよ……」
そう言って差し出した報告書には、矢島が知り尽くしているマンション名が記されていた。
以前連絡が取れなくなった時、占い師はマンションには帰っていなかった。張り込んでいた探偵社は彼を見つけられなかったし、となれば、矢島が諦めた後戻ってきたのか?
――あいつが……マンションに戻っている。
そう思うと居ても立ってもいられなくなり、矢島はハイヤーを呼ぶよう言い付け、慣れない松葉杖と共に占い師の住むマンションへ向かった。ところがセキュリティロックの数字が変更されていて、エントランスに入ることもできない。
そこで彼は仕方なく、部屋ナンバーをセキュリティインターフォンへ入力する。すると驚く程すぐに、聞き覚えのある声がスピーカーから聞こえてきた。
「誰かと思えば、あんただったか……随分久しぶりだが、俺に何か用か?」
「お願いだ、まずはここを開けてくれ……頼みが、頼みがあるんだ」
「頼み? あんたとの縁はもうとっくに切れた筈だ。今さら、あんたに何が起きようと俺にはまったく関係ないね……そうだろう?」
そう言った後ひと呼吸置いて、彼は矢島への最後の言葉を口にする。
「せいぜい、傍にいる人間に気を付けるんだな……」
そんなこと言わないでくれよ! そう声にしようとした矢島の耳に、ブツッという鈍い音が響いた。と同時に通話ランプがその色を失って、
「おい! 二階堂! おい!」
矢島は慌てて部屋ナンバーを再入力するが、二度と彼の声は響かない。
占い師は既にインターフォンから離れて、リビング中央に置かれた白いソファの前にいた。
しかしなぜか座ろうとはせず、立ったまま高層階からの景色に目を向けている。
遥か遠くまで見通せる眺望が、脳裏に故郷の景色を蘇らせていたのだ。
勿論、ビルだらけでまさしく人工的に映るそれは、実際の故郷とは大違いだ。しかし彼にとってはそのどちらも、縁遠く思える景色に違いはないのだった。
更にふと、インターフォン画面に映った矢島の姿を思い出し、
――だから、あの女は止めろと言ったのに……馬鹿な男だ、まったく……。
そんなことを一瞬だけ思う。
しかし過ぎ去ってしまった過去同様、矢島の運命は最早変えようがなかった。脳裏に浮かんだ矢島には、深い闇に命が宿ったような黒い影が、その全身にしっかり纏わり付いていた。
あそこまでになってしまえば、あと三月と保たないだろう……。そこまでを思って、彼はやっとソファに腰を下ろす気になる。
「本当に、さよならだ……」
誰に言うでもなくそう呟くと、傍らにあった小さなリモコンを手にして、そのまま1回軽く振った。するとどこからともなくピアノの旋律が響き、ジャッキー・マクリーンのサックスの音色が聞こえてくる。
ここ最近、彼は深夜に帰ってくると、〝マル・ウオルドロンのレフトアローン〟を好んで聴いた。勿論今は深夜などではないし、宵の口にもまだ時早い。それでもいつもの悲しげな音色は、心を癒すかのように広いリビングに響き渡った。