第6章 混沌 -  血脈(2)

文字数 2,377文字

 血脈(2)


「何かあれば携帯に連絡を入れるから……大丈夫よ、きっと持ち直すわ……」
 そう言った後、暫しリアクションのない未来に向かって、
「未来ちゃん、あなた大丈夫?」
 と心配そうな声を出した。きっと簡単に持ち直すような状態なら、携帯などに連絡がある筈がない。それでも、大丈夫だからと言うしかないのだ。未来もそんなことは充分に分かっていて、懸命に明るい声で答えてから電話を切った。それは知り合って20年になる看護師長からで、瞬の容態を知らせる電話だった。瞬が入院した当時から、彼女は何かと未来のことを気に掛けてくれ、そして肉体とは別に現れ出た瞬のことを、最初に目にしたのもきっと彼女だ。病院ではたまに、こんなことに出会すことがある――そんなふうに言いながらも、彼女は結局他人のそら似だろうと否定した。実際、その後すぐ未来の前にも姿を見せて、瞬は今も手の届くくらいの位置にいる。ところがここにきて、彼の姿は増々薄くなっていた。瞬の実家からの帰り道、ふと気が付けば隣を歩いていて、未来はその姿の異質さに声にすることさえできなかった。
 燦々と降り注ぐ真夏の太陽の下で、瞬の姿はまさに陽炎のように不確かだった。赤いギンガムチェックはぼやけてしまって、辛うじて赤みがかった色が見えるだけ。頭から足先までがゆらゆらと揺れて、背景が部分的に揺れているだけのようにも映る。それはまさしく、風前の灯という印象だったのだ。
 ――瞬、消えそうだよ! ねえ分かってる? ちゃんと分かってるの!? 
 何度も何度もそんなことを心に念い、それでも実際には声にできない。もし声に出してしまって、「未来……さようなら……」なんてリアクションが返ったらと、そう思うだけで恐ろしい。ただそんな時ちょうど、携帯電話の着信音が鳴り響いた。慌てて取り出し耳にあてると、いきなり「今、いいかしら?」という声が届く。4階病棟看護師長、小島悦子の声だった。未来はその場で立ち止まり、そのまま瞬の方を覗き見る。すると彼も立ち止まり、薄ぼんやりした姿でこちらを見ているようだった。未来は何とか平静を装い、「何か……?」とだけ声にする。本当は、その後に続く言葉がちゃんとあった。ところが喉が詰まったみたいに言葉が出ない。それでも無理に言おうとすれば、掠れた声が裏返ってしまいそうだ。この瞬間、悦子もきっと何かを感じたろう。しかしそんな気付きをおくびにも出さず、彼女はさっさと用件だけを告げてくる。
「昨日ね、ちょっとしたことがあって、念の為に瞬くん精密検査受けたんだけど、実は、その結果があまり芳しくなくてね……」
 見知らぬ男に口元を塞がれた――きっとそんなことも知っているのだろうが、悦子はただただ検査結果だけを声にした。内蔵が急激に弱っていて、サチュレーション値もかなり厳しい。今日明日でいきなりはないと思うが、とにかく今日から人工呼吸器を装着することになった――と告げて、彼女は最後に、きっと持ち直すと言って締めくくる。
「もう、ちょっとやそっとのことじゃあ驚きませんから、わたしなら全然大丈夫ですよ」
 未来ちゃん、あなた大丈夫?――そんな問い掛けへの未来の答えは、この20年に及ぶまさに鍛錬の賜物だと言えた。そしてこんな連絡によって、瞬が急激に霞んでしまった理由の一端を窺い知る。とにかく何にせよ、このまま家に帰る訳にはいかないのだ。
 ――瞬、このまま病院に行こう! 
 ようやくそう声を掛ける決心がついて、未来が再び瞬へ視線を向けた時、
「瞬……」
 声となった呼び掛けに、もう答えるべき相手はいなかった。瞬の姿はどこにも見えず、微かな揺らぎさえ完全に消え去っている。松江駅のホームの時とは大違いだったが、とにかく彼の肉体の状態によってこうなったのは間違いない。どうしたらいい? そんな疑問に続いて未来は、淳一が教えてくれた話をふと思い出した。
「二階堂豊子は勿論ですが、息子である京にも不思議な力があったんですよ。だから教団を継ぐのはてっきり彼だと思っていましたが、彼はその後すぐに、出雲からフッといなくなってしまったんです……」 
 あの親子には共に不思議な力があったと、淳一は確かにそう言っていた。それがどんなものだったのか今の未来には知りようもないが、瞬にだって不思議な力はあったのだ。
 ――死にそうな人が分かったり、だいたい、眠っている身体から意識だけが抜け出てるって、これだってよっぽどの能力じゃない?
 そう思って考えれば、彼の力も遺伝によるもので、ある意味親子なんだから当然と言えば当然だ。ならば病院に向かうより、もっと先に行くべき場所がある。一度は瞬のことを殺そうとした男、あの人なら何か知っているに違いない。そう確信して、未来はそこから直接二階堂京のマンションへと向かう。ところが彼はいなかった。
 ――後は、あの人のお母さんに聞くしかないわ!
 二階堂豊子、彼女だって何か知っているかもしれないのだ。ところが彼女の場合、ちょっと電話で聞いてみる、なんて気軽な相手ではなさそうだ。先ずは家に帰ってシャワーを浴びてから作戦を練ろう。未来はそう決めて、瞬の無事を祈りながら帰途に就いた。ところがその夜、再び島根に向かう準備をしていると、淳一から突然携帯に着信が入る。瞬の状態が思わしくない。ここ一、二時間で急激に弱ってきていると言って、
「あなたには、本当に迷惑ばかり掛けて申し訳ないが、やっぱり最期の時にはあいつの傍に、あなたには是非いて欲しいと思って……」
 だから叶うなら、今すぐ病院まで来て欲しい。そう話してくる声の感じで、淳一が深く頭を下げているのを未来は感じた。
 ――瞬、あなたのお父さんは、やっぱりこの人しかいないよ……。
 どこかにいるだろう瞬の思念に向けて、未来は心の底からそんなことを思った。
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