第4章  見知らぬ世界 – 知っている男(3)

文字数 1,383文字

                知っている男(3)


 ――こいつ……どうして?
 ほぼ毎日一定の時刻に現れて、瞬の傍に纏わり付いて離れない。しかしふと気が付いてみれば、朝靄のようにどこかに消え去っている。そんな男が瞬の目の前で、見慣れたシルエットのまま立っていた。
 その動きから察すれば、右手には包丁が握られていて、まな板の上で細かく何かを切っているのだろう。コンコンコンという小気味よい音が響き、合わせて男の肩も小さく揺れた。
 長身で細身、年齢は、そこそこにいっているという前の印象のままだ。一番の特徴である長髪も、いつものように後ろで1本に束ねている。
 これまでも瞬はそんな姿を知っていた。しかし束ねていたのがただの輪ゴムで、結構な白髪交りだなんてことはいかせん知る由もなかったのだ。
 ところが今、男の姿はまさに人間そのものだった。白いシャツにジーンズという出で立ちは、これまでだったら知りようもないし、なんと男の鼻唄までが聞こえている。
 男は手慣れた感じで、まな板の上のものを包丁で寄せ集め、サッと大皿の中へ流し入れた。皿には薄切りのスモークビーフが乗っていて、そこに大量のオニオンスライスが覆い被さる。そのまま皿を手にして、片方で缶ビールとフォークを持ちリビングへ向かった。するとすぐ、缶ビールのプルタブを開ける音が聞こえて、瞬はそんな音をキッチンに立ったまま聞いていた。
 ――あいつは、缶ビールを一口飲んで、必ずベッド脇に現れるんだ……そして……。
 ふとそんな記憶が蘇って、脳裏に見慣れた光景が浮かび上がった。男は缶ビールを一口だけ喉に流し込むと、いつも隣接する寝室に入っていく。そしてベッド脇にある音響設備の電源を入れて、メモリーの中からいつもの曲を選び出すのだ。
 ――くそっ!
 キッチンにいる瞬の耳にも、寂しげなピアノの旋律に続いて、聞き慣れたティナーサックスの音色が響いた。
 ――くそっ! くそっ! くそっ!
 どうしようもなく知っている曲だ。聞こえてきたのは、大好きだと信じて疑いもしなかったジャズの名曲。アドリブの旋律さえすべて頭に入っているのに、どう考えてもプレイヤーの名前や曲のタイトルが出てこない。
 ――聴いていたのは、俺じゃない!?
 そこまで思ってやっと、瞬は振り返ってリビングの方を向いた。既に男はソファに座っていて、二口目のビールを喉奥へ流し込んでいる。 
 ――おまえが、現実だっていうのか!?
 男はどうしようもなく人間的で、まったくもって幽霊だなんて思えない。
 ――俺は、知らないうちに死んだのか? 
 彷徨っていたのは、実際は瞬自身であったのか!? ずっと避け続けていた疑念が、ついに彼の頭の中で大きく渦を巻いた。
 ――いつからなんだ!? そうならいつ! 俺はそんなことになっちまった!? 
 大病をしたなんて記憶はないし、首をくくったなんて覚えだってない。
 ――じゃあ未来はどうだ!? さっきだって、あいつは俺のことをちゃんと……?
 遊園地では確かに、未来は瞬という存在と会話までしていたのだ。
 ――一緒に、事故にでもあったか?
 或いは遊園地からアパートにいく間に、やはり瞬だけが事故に遭って死んでしまった。
 彼の頭に次から次へと、様々な疑念が浮かび上がっては消えていった。
 ――未来! 頼むからおまえだけは生きていてくれ! お願いだ!
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