衛玠7 衛洗馬を悼む
文字数 673文字
美男子の誉れ高かった
衛玠 は312年に死去。
かれの死に際し、謝鯤 は慟哭。
その凄まじさは、道行く人々すら
感動するほどであった。
生前の衛玠に対し、王導 は言っていた。
「見るからに君は身体が弱そうだ。
のんびりとこそしているものの、
それでもなお服すら重そうだな」
とは言え王導、衛玠との日々は
かなり思い出深かったようである。
330年ころ、衛玠の陵墓が移転される。
この時丞相 の地位に就いていた王導、
以下のように宣べている。
「衛玠どのは厚く祀るべきであります。
あのお方こそ、風流の極み。
わたくしは過去に、
彼とよしみがございましたが、
この国内を見渡しても、
あれほどのお方も
そうはおりませんでした。
なので、現在の薄葬を
改めてやりたく思うのです」
王丞相見衛洗馬曰:「居然有羸形:雖復終日調暢、若不堪羅綺。」
王丞相は衛洗馬に見えて曰く「居然たるに羸の形有り。復た終日暢を調うと雖も、羅綺に堪えざるが若し」と。
(容止16)
衛洗馬以永嘉六年喪。謝鯤哭之、感動路人。咸和中、丞相王公教曰:「衛洗馬、當改葬。此君風流名士、海內所瞻。可脩薄祭、以敦舊好。」
衛洗馬は永嘉六年に以て喪ず。謝鯤の之を哭せるに、路ゆく人は感動す。咸和中、丞相の王公は教じて曰く「衛洗馬は、當に葬を改むべし。此の君、風流の名士なれば、海內の瞻る所なり。薄祭を脩め、以て舊好を敦くすべし」と。
(傷逝6)
衛玠
中国では古代の五大美男の一人としてカウントされているらしい。つーか画像に慕容沖 と同じ画像が出てくるとかどーゆーことよ。永嘉 の乱に際して避難しようとしたが、病が篤くなり移動の前に死んだ。
かれの死に際し、
その凄まじさは、道行く人々すら
感動するほどであった。
生前の衛玠に対し、
「見るからに君は身体が弱そうだ。
のんびりとこそしているものの、
それでもなお服すら重そうだな」
とは言え王導、衛玠との日々は
かなり思い出深かったようである。
330年ころ、衛玠の陵墓が移転される。
この時
以下のように宣べている。
「衛玠どのは厚く祀るべきであります。
あのお方こそ、風流の極み。
わたくしは過去に、
彼とよしみがございましたが、
この国内を見渡しても、
あれほどのお方も
そうはおりませんでした。
なので、現在の薄葬を
改めてやりたく思うのです」
王丞相見衛洗馬曰:「居然有羸形:雖復終日調暢、若不堪羅綺。」
王丞相は衛洗馬に見えて曰く「居然たるに羸の形有り。復た終日暢を調うと雖も、羅綺に堪えざるが若し」と。
(容止16)
衛洗馬以永嘉六年喪。謝鯤哭之、感動路人。咸和中、丞相王公教曰:「衛洗馬、當改葬。此君風流名士、海內所瞻。可脩薄祭、以敦舊好。」
衛洗馬は永嘉六年に以て喪ず。謝鯤の之を哭せるに、路ゆく人は感動す。咸和中、丞相の王公は教じて曰く「衛洗馬は、當に葬を改むべし。此の君、風流の名士なれば、海內の瞻る所なり。薄祭を脩め、以て舊好を敦くすべし」と。
(傷逝6)
衛玠
中国では古代の五大美男の一人としてカウントされているらしい。つーか画像に